

谷口千春さん
と
スイスで出会った トップス
26.03.28
HIROSHIMA
広島で生まれ育ち、京都大学と東京大学大学院で建築を学んだ谷口千春さんは、様々な経験を経て地元、実家に戻ってきた。園芸事業を営んでいた実家の広い敷地を、学んだ建築の知恵をや経験を生かし、住宅エリアとカフェや民泊などの複合型コミュニティエリアからなる新たな“街”「ミナガルテン」をスタートさせた。どんな経過と思いを経て、現在があるのか。その途中で出会った服とはどんなものだったのだろうか。

--オーロラ研究者と図書館司書の間に生まれて
― 谷口さんは、もともと広島のご出身なんですよね?
生まれは埼玉だったのですが、小学校六年生の時、長男だった父は40歳の時に跡を継ぐために地元の広島に戻りました。父は元々オーロラの研究をしていた物理学者で、母は図書館の司書。父は家や家業の園芸事業を継ぐつもりはなく、定年まで研究を続けてから戻ろうとしていたようです。しかし、祖父が癌になり、「長男として家を継いでほしい」と頼まれ、迷った末に40歳で広島に戻る決断をしました。
― 谷口さんからすると急にご両親の仕事が変わったわけですね。
オーロラの研究者と司書の二人が、園芸事業というまったく違う分野に飛び込むことになったわけです。学問の世界にいた父が、商売の世界、それも体力を使う仕事に挑戦するのは大変だったと思います。

― そんな親を見ながら、谷口さんはどんな子どもだったんですか。
3歳の頃から作曲をしたり、小学6年生くらいから漫画を描き始めて、中学3年になる春には雑誌の編集者がついてくれました。夏休みには東京に行って、編集者の方に作品を見てもらったりもしていたんですよ。同時に中学から大学まで演劇やミュージカルをやっていました。
― 編集者がつくとはプロ目前ですごい! 演劇やミュージカルもやって多彩です。
物語の世界が好きだったんです。化学も好きで最初は薬学部を目指していたんですが、浪人している時に建築という道に気づき、「建築なら舞台美術とかもできるかもしれない」と思って建築科を選びました。同級生はガウディや安藤忠雄に憧れていましたが、私はそういうシンボリックな建築家像には関心がなく、建築は「物語の背景」として考えていました。そこで活動する人や巻き起こるドラマの方に関心があったんでしょうね。
--スペシャリストではなくジェネラリストとしての自分
― 建築の道に行ったけど、建物そのものではなかったわけですね。
大学院時代、「能楽×建築研究会」というプロジェクトを仲間たちと立ち上げ一年かけてプロジェクトを企画実行したこともありました。企業や財団から1200万円くらいを集め、さまざまな大学から案を募集して講評会を開催したり、ノルウェーやスウェーデンの学生たちと共同設計・施工で、淡路島の野っ原を切り拓いて600席の観客席のまわりに3つの舞台を作り、人間国宝の能楽師にパフォーマンスをしていただきました。請負いの仕事ではなく、自分たちがつくりたい世界のビジョンを描き、それに向けて資金を集め、人を集め、学びながら進めたプロジェクトでした。当時、それを「学生の未来像、建築家の未来像」と呼んでいました。

この経験が国際交流や地域活性にもつながり、仕事としてではなく、「こういう働き方をしたいなあ」と思うようになりました。私は本来すべてをやりたいんですよね(笑)。「漫画を描く」ことはまさにそれでした。作者がファッションデザインもすれば、シチュエーションや背景、照明も決めるし、演出やキャスティングもすべて決めます。漫画の中では「全知全能の神」のような存在で、筆一本で何でもできたんです(笑)。
― たしかに! 漫画家は作品にとって神様ですもんね。
建築学科には行きましたが、何かひとつのスペシャリストではなく、ジェネラリストだと早々に理解していたこともあって、住宅から公共施設、商業施設まで建築を軸に「企画」「設計」「運営」を手掛けるUDSという会社なら、大学で勉強した建築に関係しながらジェネラリスト的な働き方ができる場所だと思って入りました。

UDSは、MUJIホテルやクラスカなどのホテルプロジェクトも手がけている会社です。、私は当時、キッザニアの開発に携わりました。私は企画営業として、スポンサー候補の企業にマーケティングやCSR的な観点を踏まえつつ、子どもたちにとって良い企画を考えて提案する役割でした。営業の段階では簡単なイラストでイメージ図を描きつつ、実際の設計フェーズでは、設計チームと協働して形にしていきます。
― 建築的な仕事でありつつ、いろいろなことがやれていたわけですね。
ところが、リーマンショックで会社が民事再生になってしまいました。そこで建築不動産業界を一度離れ、「漫画家を目指していた自分」を成仏させたくて出版業界へ行きました。過去の自分の履歴を一つ一つ整理し始めたくてもう一度漫画を描いてみたけど、才能がないなと諦めがつきました。その後、好きだった着物業界に入って5年くらい携わり、最後の2年くらいはフリーランスで活動しました。そうした経験から「建築や街づくり」「出版メディア」「着物や伝統工芸」という三つの世界をつないでいくことが、私の仕事のテーマになっていきました。
--モノガタリストという肩書き

― 「建築や街づくり」「出版メディア」「着物や伝統工芸」という三つの領域は、谷口さんしかない強みですね。どうやって繋いでいくイメージを持っていますか?
私が企画する際は、まず人を中心に考え「この人とこの人が一緒にやったら、どんなことが生まれるだろう?」と発想するんです。現在は「モノガタリスト」という肩書きを名乗っています。この言葉を見つける前は、「地域資源プロデューサー」と名乗っていましたが、それがしっくりきていませんでした。

私の根っこには物語にあります。それはいわゆる起承転結のあるストーリーというよりも、出会う人たちと共に物語を紡いでいくものという感じです。最近は「ナラティブ」という言葉で表現されることもありますが、「みんなで紡いでいく」というイメージです。「プロデューサー」というと、どうしても「上に立って総指揮を執る」ようなイメージですが、私はどちらかというと「カタリスト(触媒)」、つまり媒介者のような存在がしっくりきます。ドラマを起こす人たちが主役で、私は演出家や舞台美術家のような立ち位置です。「必要な時や最後に出てくるが、最初に挨拶はしない」という美学(笑)。
「自分のアイデンティティって結局なんなんだろう?」と思うことがありました。「固めたい」気持ちと「ずっと自由でいたい」という気持ちの両方があり、それって「変わり続けること」なのかもと思い当たって。「カタリスト」という言葉と、友人のアーティストに授けてもらったシンボルマークを見て、自分の「変わり続けるアイデンティティ」が腑に落ちた感じがしました。
--重なってきた父との道

― いま取材で伺っている「ミナガルデン」はどうやって始まっていたんですか?
話は少し遡ります。2017年夏、急に実家の農園を閉じることになりました。父が鬱病になってしまったんです。父は元々園芸の仕事を娘たちに継がせる気はなくて、家だけ継いでほしいと話していました。そのため、「いつか何かをするんだろうな」とぼんやり考えていたのですが、急にその時が来た感じでした。「先祖代々の土地の歴史や風景に敬意を表しながら、その場所をどう活かすか?」2年半の準備期間を経て、2020年に広島に帰りました。父が広島に帰ったのと同じ、40歳になっていました。
父がオーロラの研究者を、母が図書館の司書を続けていたらどんな人生だったのか、園芸事業と共に過ごしてきた20数年がどんなものだったのか。そして、これからの父母の人生が輝くものになるために。過去に敬意を表しながら、新しい命を吹き込みたいと思っています。




― たしかにすごい偶然です。まったく別の道を辿りながらも、広島から関東を経て同じような年齢で広島に戻って同じ土地で新しい仕事を始めたわけですもんね。
ただ私には、同時期重大な変化がありました。父が鬱病になるちょっと前に、結婚相手と別居をしていました。それは、自分の「アイデンティティ・クライシス」的な状況からでした。夫婦として新しい形を作る必要があったのですが、お互いがそれぞれの夫婦イメージにとらわれてしまっていました。流産を経験したり、ゆっくりと「どうにも立ち行かない」という状況に至ってしまった。私自身も鬱の症状があり、10年ほど波がありました。「自分はこのままでは終われない」という気持ちは常に持っていました。別居するタイミングで検査を受けたところADHDと診断されて、自分自身への疑問が解けて、気持ちが軽くなった感じがしました。とはいえ、それをすぐに受け入れられたわけではなく、葛藤もありました。結局、一度離婚をしたのですが、紆余曲折あって、今はもう一度その人と籍を入れずにパートナーシップを結び、お互いに行き来する形を取っています。
ただミナガルテンは、そうして一人になったからこそできたことだと思います。この場所で5年かけてというのは、夫婦であれば二人の家のこと、相手のキャリアや実家のことなどがあって、ミナガルテンを作る決意ができなかったかもしれません。私が一人になっていたからこそ、「谷口家の長女として頑張りきれた」と感じています。そうやって、ある意味で自分の人生を取り戻したのだと思います。
--皆賀の庭=ミナガルデン
― 非常に広い敷地に住宅やカフェ、シェアサロンやシェア本屋など様々なものが一緒になっていますよね。
「ミナガルテン」の「ガルテン」はドイツ語で「庭」を意味します。「皆賀の庭」というシンプルなネーミングですが、日本語で「みんな」という意味や、フィンランド語で「わたし」や「個人」を意味する「mina」も含まれています。これは「一人一人が持って生まれた個性や才能の芽を最大限に花開かせることが、社会全体を豊かにする」というメッセージです。みんなで作った豊かさを、みんなで分け合いましょう、という思いが込められています。


― みんなの庭であり、わたしの庭である。とてもおもしろいネーミングです。
ミナガルテンのリリースに絵を載せました。いわゆる「建物があって、その周りの余白に庭を作る」のではなく、もともと園芸の場だったので、「全体が庭で、その中に必要な機能を配置していく」という考え方にしました。土地は相続やその他の理由でどんどん分割され、所有者ごとに囲い込まれて塀が作られ、その中で生活するようになりがちです。街としての一体感が失われがちなので、それを残したいと思いました。町の歴史や景色、記憶や風景を守りたかったのです。「大きな庭、始まります」と謳い、「ローカルとグローバルをつなぐコミュニティにしよう」と決めました。これまで築いてきたものを活かし、ローカル色が強ければ強いほど、外から来た人たちにとって面白いものになるからです。
― ここにはどんな歴史や物語があるんですか?
この土地はもともと「水が長い」と書いて「水長」と呼ばれていました。山からの水が滞留する場所でしたが、江戸時代に治水工事が行われ、「みんなが祝う」という意味の「皆賀」という漢字になりました。これはコミュニティ施設をやろうと思っていた私にとって非常に良いストーリーでした。ネガティブな状態を、私たちが力を合わせてポジティブな状態に変えることができるというような語り口で、今も隣の母屋に東屋が残っています。そこにはもともと、日本一の樹齢と大きさを誇った樹齢600年のカエデの木がありましたが、バイパス開発によって枯れてしまいました。当時の「中国新聞」のインタビューで祖父が「根を大事に保存して孫子の代まで伝えたい」と言っていたので、私は「じゃあ、孫としてそのバトンを受け取ったよ」という気持ちで、室内のシンボルツリーとしてカエデの木を植えました。過去を思うことは、良き未来を願う未来へと通じるということを意識して、地域の歴史や風景をただ語り継ぐだけでなく、何か新しいものを手がかりとして残していきたいと思っています。

― 公的の歴史と私的な歴史がすごくいいかたちで交差しています。
なぜここまでしたのかというと、父が病気になったことがきっかけです。父が鬱から元気になったときに、この場所が変わってしまっていたら、その風景を見ながら一生苛まれながら生活しなければならないんじゃないかと思ったんです。父が病気になったのも、当時の卸売というビジネスモデルが破綻しかけていたからだと思います。自分の好きな研究者としての生活を捨て、30年かけて築いてきたことの終わり方が辛かったのだと思います。これからは父が後悔しながら生きてほしくない、そして父のおかげで歴史や風景をつなぐことができたのだと感じてほしかったのです。そこに自分のアイデンティティ・クライシスも含め、「これからの『本当の豊かさ』や『幸せ』をみんなで一緒に考えていきましょう」という呼びかけでした。明確な答えはありませんが、なんとなくの方向性はわかっています。解像度を上げていくために、いろんな領域の人たちと一緒にその答えを探していける仲間を募りました。

--手渡され続ける「アルケミスト」

— 今回持ってきていただいた服について教えてください。
服から少し遡るのですが、2004年に淡路島で能舞台を作った後、その舞台をスウェーデンに持って行ったんです。建築仲間6人くらいで行ったんですけど、スウェーデンでパフォーマンスをした後、それぞれが好きな場所に散っていきました。ちょうどみんなが人生の岐路に立っていて、興味の対象もバラバラだったんですよね。私はスウェーデンから南へ向かい、デンマークに行きました。そこで『アルケミスト』という本と出会いました。この本はスウェーデンのイベントで出会ったデンマークから遊びに来ていた建築学生からもらったものでした。この本は日本人から日本人へと渡され、私で5番目でした。その後、私も読み終わってから友人に渡しました。こんな風に、本が人から人へ渡っていくことで、そこに書かれている以上の価値が生まれると感じました。この本をくれたのは、建築家の田根剛さんだったんですよ。
— なんと!田根さんはもう世界的な建築家ですね!
そうなんですよ(笑)。私は24歳くらいの時に田根さんに出会って、その時のことが今でも鮮明に思い出されます。田根さんがデンマーク王立大学に通っていた頃の話ですね。その後、田根さんはスターダムに登っていきましたが、いつか広島の街づくりを一緒にできたらいいなぁと思っています。

そんな風に、本との出会いって「どこで」「誰から」出会ったかがとても大切で、その後の人生にまで影響を与えるんです。私にとっては、あの旅がいろんな出会いや、その後の考え方に繋がる大切な旅でした。当時は常に心の中で「今、自分に必要なものは何だろう?」「どこへ行って何を見たいんだろう?」と問いかけていました。それができた時代でしたね。社会に出てからは、そうした直感が曇ってしまった時期もありましたが、あの時代の自分は迷いながらもクリアだったなと思います。
— なるほど。今回の服はそうした時期のものですか?
当時、京大から東大に一緒に行った親友がチューリッヒ工科大学に留学していたので、彼女に会いにスイスに行ったんです。その時、買ったものです。クラフトマンシップに魅了されて、異素材のコンビネーションがとても好きなんです。学生旅行にしてはいい値段だったと思いますが、インスピレーションを感じてカードで買いました。この服を見ると、まだ迷いながらも探求していたけど、自分の直感に従って生きられていた時代を思い出します。


--そのままの景色とし愛でる
— この服を修復してプロダクトにはしないんですね。
そうですね、今回のリプロダクトはしない予定でいます。この服も20年近く着続けたことで傷ついていますが、それをどう生かして、別の魅力的なプロダクトに変えるかを考えています。金継ぎは「割れたものをそのまま景色として愛でる」という考え方ですよね。器が割れて金継ぎをすると、それが特別なものになります。それって人間と一緒だなと思っていて、自分も傷ついて割れてしまった時がありましたが、それを隠さずに誇ることで特別なものになると感じています。
— 物持ちはいい方ですか?
そうですね。残しているものと、すぐに手放してしまうものがありますが、この服は特別な存在です。長い間、断捨離に耐えてきたので(笑)。今年は一回だけ着たという年もあれば、2〜3年着ていない時期もありました。日本の着物文化には「小豆、三粒包める布は捨てるな」という格言があります。最後まで使い切ることが大切だとされています。
— 広島に久しぶりに戻ってきて、広島の街はどうですか?
広島はとてもいいですね。まず、街としての魅力があります。密集しすぎず、車で30分で山や海、島にも行ける開放感があります。そしてもう一つは、ここが自分にとってのルーツであるという点です。東京では「わたし」という個人としての自分を感じますが、広島に戻ってきて「自分が生きるミッション」や「家族の歴史」「地域の歴史」を背負って生きることができていると感じます。自分一人では頑張れないことも、家族や地域、世界のためだと思うと頑張れるんですよね。同じ夢を共有できる仲間たちがいて、そのことが自分を強くしてくれたと思っています。

----谷口千春さんのスイスで出会ったトップス

聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一



谷口千春
株式会社DoTS 代表取締役社長 クリエイティブディレクター 株式会社ミナサカ代表取締役/ ミナガルテン代表
埼玉生まれ、広島育ち。
京都大学と東京大学大学院で建築を学び、コミュニティとシステム、デザインでまちを面白くする建築・不動産プロデュース会社、UDS株式会社に入社。
キッザニアの企画開発や沖縄のホテルプロジェクトなどに携わる。
出版業界、着物業界、フリーランスでの活動を経て、2020年4月に帰広。
広島では、ウェルビーイングを軸にした共創拠点「minagarten」代表として経営にあたるほか、ひろしまのまちづくりに携わる。
竹原市まちづくりアドバイザー(2022年〜)、広島都心会議「都市 to デザイン」企画・ディレクター(2023年〜)、
出汐地区開発事業パートナー(2023年〜)。
また、株式会社DoTS代表として、「点(dots)」を起点に、人・場所・想いをつなぐ企画や編集、場づくりを行い、関係性や価値が循環する仕組みづくりに取り組んでいる。
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一




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