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GUYさん

再結成時につくった バンドTシャツ

26.02.08
HIROSHIMA

GUYさんは、1984年に広島発の伝説的ハードコア・パンクバンド「愚鈍」のオリジナル・メンバーとして音楽活動を開始。89年からは音楽レーベル「BLOOD SUCKER RECORDS」を主宰し、93年にDISK SHOP「MISERY」を立ち上げる。プレイヤーとして、レコード屋として国内外のハードコア、パンクを中心に→発信し続ける一方で、広島の災害ボランティア活動「SAVE THE HIROSHIMA」の代表も務めている。自身をノンポリだと話すGUYさんと音楽と社会のつながり。

--自分たちでつくりあげるユースカルチャー

— バンド、愚鈍は元々いつ頃活動されていたのですか。

84年から90年です。当時のハードコアパンクが主催するイベントでデビューしました。
そのままその年に自主制作のカセットを出して完売したので翌年早々にソノシートをリリースしました。ソノシートといっても分からない人が多いと思うので説明すると、通常のレコードと比べて物凄く薄いレコードなんですね。70年代~80年代は雑誌のおまけとしてもよく使われていました。
レコードってプロ歌手がレコード会社からリリースするのが当たり前の時代で、自分たちでリリース出来るという事に魅力を感じました。それは自主制作盤と呼ばれてましたね。
所謂インディーズブームの先駆けのようなものです。
レコードは高いけど、ソノシートなら安価で出来るので、まずは県内外に知ってもらう意味でリリースしたんです。1000枚完売してしまったのでびっくりしましたけどね。



— いきなり1,000枚完売はすごいです。愚鈍以前もバンドをやっていたんですか。

高校生の頃は、いわゆるコピーバンドをやっていて、愚鈍がオリジナル曲を発表する初めてのバンドでした。その頃、「パンク、ハードコア・サウンドでオリジナル曲をつくってソノシートやカセットを出す」という、インディーズ・ブームの先駆けみたいなものがあることを雑誌などで知ったのです。

— DIYでやっていく感覚ですね。

そうです。パンク、ハードコア、オルタナ、ノイズなどのサウンドカルチャーに興味を持ちました。特にTHE STALIN、GISM、GAUZE、COMESなどの東京ハードコアに影響を受けました。その数年後ラフィンノーズやブルーハーツの登場でインディーズの世界も可能性が広がった時代もみさせてもらいました。

— 広島に限らず全国各地でそういう動きがあったんでしょうか?

欧米を中心に、80年初頭から85年を一つのピークにして世界で同時的に起こっていました。情報を得たのは自主制作されたガリ版刷りのPUNK ZINE『MAXIMUM ROCKNROLL』です。ZINEやテープトレードを通して世界中のインディーズバンドがお互いの情報をやり取していたんです。そして世界各地へとハードコアシーンは広がっていきました。だから大人が全く介入していなかったんです。

--高校生が企画して1000人呼べた時代

— 最初の音源はどうやって録ったんですか。

スタジオでラジカセの録音ボタンを押して「1、2、3、GO!」。テープを切って、貼ってマスターにして、レコード・プレスができる会社を見つけて、「わあ、音ひどいですね〜!」って言われながらつくりました(笑)。自分も含めてメンバーは全員19歳でした。僕たちより前の世代がやってきた「デモテープはライブで手売りするもので、同時にメジャーのおエライ事務所にも送るもの」っていうのが、かっこ悪い考え方だと思っていましたね(笑)。「インディーズ店もあるのだから自分たちで売ればいいのに、何故売らないのだろう」って。

― 大人や大きな資本に持っていかれるのではなくということですね。



「みんな、なんでやらないの?」
「いや、お金かかるから…」
「ちょっと我慢して2〜3か月メンバー全員でバイトすればできるんじゃないの?」

周りはみんなそんな感じで、まだまだDIY精神が根付いていなかったんでしょうね。
「デモテープを作ってそこそこ有名になったら、いつかくるかもわからないメジャーの誘いを待つ」みたいな商業的な成功を夢見るバンドが多かったように記憶しています(笑)


— レコード会社の人がライブハウスの後ろで見てるイメージですよね(笑)

そうそう(笑)。「来てるらしいよ!」って(笑)。

— 東京にライブに行くこともあったんですか。

ありました。2ndシングルをリリースしてくれたSELFISHレコードのイベントに呼んでもらったりハードコアバンド、GAUZE(ガーゼ)が主催する「消毒GIG」にも呼んでもらいました。GAUZEのメンバーは当時20代でしたけど、地方は10代のバンドが多かったですね。愚鈍は19歳で一番年上でしたから(笑)
高校生が録音して、自らレコード販売をして1000枚売るような時代でした。
、ライブを企画する高校生もいて、地元のライブハウスじゃ、動員しきれないから公民館を借りて1000人規模のお客さんを集めることもありましたからね。

— 動員の規模がすごい。

当時は、パンク/ハードコアがカルチャーとして広島にはまだ根付いていなくて、「鋲ってどこで売ってるんだろう?」「パンクTシャツ売ってるとこ知ってる?」みたいな状態。分からないから自分たちで工夫して作り上げるしかなかった。ファッションもバンドシーンもね。
自分も含めてダサいパンクスもいっぱいいたのけど、それが広島の最先端だった。
当時のカルチャーの中心はヤンキーだから、周りもパンクスをどう扱っていいのか分からない感じはありました。(笑)

— 「ヤンキーとはまた違う不良が出てきた!」っていう感じだったんだ。

そうそう。だから面白かったですよ。

— 周りからは「怖い人たち」と思われていたんですか。

どうなんでしょう。最初の最初は、「恐い」「恐くない」もなくて、「何者だ、こいつら?」みたいな感じだったと思います。普通の生活をしていたらモヒカンなんて見なくて済む時代で、レゲエ(ラスタヘア)のことも「浮浪者のおっさん」とか言われていたくらいの時代でしたからね。

--目まぐるしく入れ替わる世界

— パンクに行き着く前、小、中学校時代はどんな音楽が好きだったんですか。

小学校の時はフォークとロックですね。4つ上の兄貴からフォークやニューミュージックを教わって、海外のロックとかを聴きだした小学校高学年の頃にパンクが登場したんです。
とはいえ、まだパンクには出会うことなく、それから2年後のANARCHY(アナーキー)が日本のパンクバンド初体験でしたね。それが80年の冬で、中学二年生。
すでにセックスピストルズは解散していました。「洋楽のパンクバンドを知りたいのだけど」と年上のロックリスナーに聞いたら、「もうパンクは終わってる。古いよ」って。その彼からポストパンクを教えてもらい、PILやKILLING JOKEなどを聞くようになりました。中学一年の78年にはYMOが世界デビューしてニューウェーブが世界を制するみたいな頃でしたから、メジャーの感覚を超えて同時代性を感じていたのだと思います。

中学時代はパンクロックそのものよりもポストパンクやニューウェーブに影響を受けた部分があります。ANARCHYでパンクを知ったその瞬間に「古い」と言われた中学時代から高校に入学して82 年にSTALIN(スターリン)が出て、「イエーイ!」ってなっていたら、「スターリンなんて古い」とGAUZEが出てくる。それがたった3年の間。

— 目まぐるしい交代劇ですね。

今振り返ると、反抗期とか思春期と重なっていたと思います。パンクスと並行してヤンキーでもありました。共存していたのは珍しかったんじゃないかな。ヤンキーの友達と遊んだり、暴走族の真似事をしていた時も、頭はリーゼントでTシャツはスージー・アンド・ザ・バンシーズ。程なくして、モヒカンにしたときは「すげえな!モヒカンが友達なんてウケるぜ」なんて言われてました(笑)

— はみ出したなかで、さらにはみ出して(笑)。

そうそう。自分としては不良カルチャーとの同時代性も感じていました。そうじゃないパンクスは「ヤンキーカルチャーはダサい」という奴も多かったですね。だから自分のライブだけは、ヤンキーもパンクスもいろんな友だちが混ざって来てくれてましたね。

--悲惨だった自分のレコード屋

— 19歳でバンドを組んだ当時、「音楽で食っていこう」と考えていました?

インディーズ御三家と言われたラフィンノーズ、有頂天、ザ・ウィラードがいて、さらに筋肉少女帯もいて彼らはやがてメジャーデビューしていくわけだけど、自分たちがその道を進もうとまでは考えたことがなかったし、メジャーにアップすることが「食える」とか、「生業になる」とまでは考えてなかったと思います。
ラフィンノーズのメジャーデビューを通してハードコアが一般層に広がっていく可能性はすごく感じていましたけどね。

— お金の話ではなくて、「でかいステージでやる」と。

そちらの方が近いじゃないですか? 「お金云々よりも沢山のパンクスの前で演奏したい!」、それしか考えていなかったです。「食えるどうのこうの」を考えた始めたのは、次世代のいわゆる「イカ天」世代のバンドなんじゃないですかね。イカ天ブームが終わって程なく登場した世界的なメロディック・ハードコア・ブームで90年代中期に登場してきたHi-STANDARDが日本のロック・シーンにハードコアをいう言葉を認知させたと感じています。

彼らや彼らと共に頑張っていたバンド達のお陰でかつてはクラスに一人しかいなかったハードコアをクラス全体まで一気に広げてくれましたからね(笑)。

そのイカ天ブームが終わる寸前に今の店を始めたんですけどね。
2023年で30年、今年で31年やってます。まだハイスタ等のメロコアブームの前でしたから一番悲惨な時期でしたね。MISERY(悲惨)とはよく名付けたものです(笑)

— 悲惨というのは。

品揃えは悲惨だし、売り上げは悲惨だし。「二人のバイト代がすべの収入。それで店の赤字を補填する」みたいな状況が一年続きました。
自分が推していたメロディック・ハードコアのシーンが来だした。「バッド・レリジョンとかNOFXとかあります?」というお客さんが来始めて、「お前ら、やっと気づいてくれたか!!」って(笑)。そうこうしてたら「メロディック・ハードコア」が「メロコア」
に置き換わってハイスタンダードがスマッシュヒットを出して、ドカン!!
それからですね。店舗だけで生活できるようになったのも。

--バンドTシャツというカルチャー

— 最初のバンド、愚鈍が終わってからはどうしたんですか?

今でもハードコアが一番好きですし、バンド活動も続けてますよ。愚鈍解散後は、WARHEAD JUNK、CAVEMENを経て2005年からは今も続けているOrigin of Mというバンドでボーカルとベースをやっています。

— お店にはアナログレコードがたくさんあります。ここ数年のアナログブームとは別で、ジャンル的にハードコア/パンクは新譜をアナログでつくるカルチャーがあるんでしょうか。

ジャンルの個性なんじゃないですかね。日本でCDが一般化しただけで、本場の海外ではずっとアナログでしたからね。

— バンドTシャツは、インディーズでもライブごとに作っていた感じなんですか。

今のようにバンド単体でのTシャツを作ることはまれでした。
80年代にTシャツを中心としたバンド・マーチャンダイズをつくってたのはさっきの御三家だと思いますよ。多くのバンドがTシャツを作り出したのは90年代からですね。
80年代はツアーTシャツを出すバンドがたまにいたかな。「ツアー」というのも、その当時は新しい概念だったんですけれども。

— なるほど。

レコード屋で働いていた時(1989年)、自分の描いたイラストで「愚鈍」Tシャツを作ったんです。
売れ残らないように30枚限定にして、売り出すと瞬殺でした。

--まさかの再結成でつくったTシャツ

— 今回ループケアするTシャツは、当時作ったものではないそうですね。

そうなんです。2008年に「愚鈍再結成」の打診をいただいたことがあります。当時は再結成に興味がなかったので先方にお断りさせてもらったんですね。ところが、当時のボーカルが「是非やらせてください」と真逆の事を先方に言ったらしく、勝手に話が進んでいて、無茶苦茶揉めましたよ(笑)。
結果「一度だけだから」と説得されて、2009年1月に新宿ロフトで再結成ライブをやったら満員のお客さんが迎えてくれて、Tシャツも何百枚も売れました。
再結成と同時にボーカルの病気が発覚しまして、本当にそれ一度きりになってしまったんですが。(2014年9月にボーカル死去)。愚鈍再結成の2009年は、自分のレーベル(BLOODSUCKERRECORDS)の20周年でもあったのでお蔵入りにしようと思っていた愚鈍のソノシートやカセット、オムニバス音源をまとめた初期音源集をCDでリリースしました。
当時のジャケット(ソノシート:残忍聖者)をそのまま使ったんです。

— そこで作ったTシャツなんですね。

そう、このTシャツのイラストが当時のソノシートのジャケットで、編集盤のCDのジャケットにも使っています。そういう40年近い年月の思い出が詰まっていますね。

--ノンポリだからこそ

— GUYさんは、お店や音楽活動だけじゃなく災害地での活動もされていますよね。

「SAVE THE HIROSHIMA(https://sth20140824.jimdofree.com/)」という災害ボランティアですね。「to future gig(https://www.to-future-hiroshima.com/)」というピースコンサートもやっています

— そういう活動は昔から考えてらしたんですか。

「TO FUTURE(平和活動)」は、40才前に始めたのですが、取材されるようになって「何がきっかけですか?」とよく聞かれるんです。
そもそも自分はノンポリシーのパンクスだと思っていて。広島出身ではあるけれど学生時代の平和学習にシンパシーを受けたわけでもないですからね。


— 音楽ジャンルとして、パンクがそうした活動と結びつくようなところはない?

ハードコアパンクやパンクはやはり反戦~反体制の考えを持ったバンドが多いですよね。「NO WAR」に影響を受けてはいるけれど、今思えば若い頃は本当に上っ面だったと思います。2000年だったかな? 東京のパンクスから「広島と長崎で反戦イベントをしたいんだけど、GUYくん地元として手伝ってくれない?」と相談されて、「いいよ!」と思いながら「あれ、でもなんで反戦イベントを東京のパンクスがやるんだろう?」「本当は俺らがやるべきなのかな?」って初めて疑問みたいなものが生まれたんですね。
翌年、広島の後輩が「ピース・コンサート(エイトシックス)やります」「おおっ! いいことじゃん!」。「あれ?、ちょっと待て、これ後輩じゃなくてワシらがやることなんじゃない? なんか俺ダサくない?」と思っていた2004年、別の後輩が「8月6日に反戦ギグやります。ぜひ来てください」って言われた時に「やるなら協力させてよ。わしもヒロシマについて詳しくないから一緒に学びながら発信しようぜ」と自分の中で初めての行動を起こしたんです。
後輩も共感してくれて、自分達が学ぶ意味を含めて無料冊子をつくりはじめたんです。そうしたら「面白いから卸してくれ」と言われて、最初は100部だったのが今では数千部にまでなりました。1年後の2005年には『to future gig』っていうライブイベントも始めたことで平和活動を本格的に始めました。
活動を続けながら反核と共に反原発にたどり着いた数年後の2011年3月11日に東日本大震災の影響が起こり、福島第一原発の水素爆発から福島に放射能が駄々洩れしてしまったんです

— その前だったんですね。

で、自分は『To Future zine』で「反原爆」と同じように「反原発」もテーマとして扱ってきていました。だから周りからは「これから日本はどうなるんだ」みたいに聞かれて。

— 活動してきたから。

それまで以上に反原発活動にグワッとのめり込みましたね。
2年くらい毎週のようにデモもやっていました。
一方で、仲間である北海道のハードコアバンドSLANGがはじめた「NBC作戦」(https://twitter.com/Jiritsu_Project)は、実際に震災で被災に遭った人たちにご飯や水を届けて、エンジニアの西片明人くんは「東北ライブハウス大作戦」(http://www.livehouse-daisakusen.com/)を始めていました。
反原発を発信している自分よりも、彼らの活動の方が凄いと素直に感じたんですね。
彼らの支援グッズを買ったり、支援Tシャツ(はだしのゲン)を販売して売上をNBC作戦に寄付したりして満足してはいたんですけど、直接被災地に向き合えていない自分に対してもやもやが残ったまま2014年、広島市安佐北区安佐南区を襲った大規模土砂災害(広島豪雨災害)が起きたのです。
「今度は地元が被災したぞ!どうするんだ俺。このまま何もしないなんてダサいから、ちょっと行ってみよう。考えるよりまず動いてみよう」と思って現地に行ったら、被災状況のひどさに驚きました。それが23日で、翌日24日にあらためて仲間と一緒に初めてのボランティア体験をしました。
SNSで「みんな手伝いに行ったらたくさんの人が助かると思う」と書き込んだら、反響がありました。
その日に隣の山口県であった『ワイルドバンチ』というフェスに出演していたOAUのTOSHI-LOWから明日、ぜひ復旧活動を一緒にしたいと電話もかかってきました。
翌日、OAUと共にthe HIATUSのメンバーも来てくれて一緒に土砂を掻きました。
その様子が中国新聞等のメディアに載ったことで、翌日から「TOSHI-LOWさんの先輩ですよね。手伝わせてください」って、彼らのファンたちがブワーッと手伝い来てくれたんです。
「TOSHI-LOWさんから『GUYくんに言えば現場に連れてってもらえる』って聞いたんですけど」って勝手に話が進められていた。「クッソ、あいつ!」って(笑)。
さらに「細美さん(the HIATUSボーカル)から言われたんですけど…」「おいおい」って(笑)。そんなこんなで受け入れたりしていたら、いつの間にか団体「SAVE THE HIROSHIMA」の長に担ぎ上げられていました。とはいえ、ボランティアは面白いし、大切な事だと思っているからやってんですけどね。音楽と平和とボランティアは、全部繋がってるんですよ。

--広島に生まれて、パンクをやってきた

そうした活動のきっかけにはたぶん片仮名の「ヒロシマ」という言葉があったんじゃないかと思っています。JUMPで連載していた『はだしのゲン』をリアルタイムで観た最後の世代くらいですが、描写や表現に驚くことはあっても、反戦の強い気持ちとかまでは至っていませんでした。小学校2年生の時、平和学習で原爆資料館に連れて行かれて「怖い」と思ったけど、怖いだけで具体的な平和を願う気持ちにはやはりならなかった。それがその後、パンクという音楽に触れて「NO WAR」という言葉を初めて聞くことになります。いつだって恋愛の歌がいちばん受けるという世の中にあって、戦争の酷たらしさとか戦争反対というのがすごく斬新に感じたんです。
当時は響いたとは言えなかった子どもの頃の平和学習からハードコアパンクまで全部つながって、今があるのかなあと思うんです。たまたまハードコアバンドを長く続けてきたから、広島の災害支援にもつながった。もしも音楽をやってなかったら、平和活動にせよ、ボランティアにせよ、ゼロから始めるのはキツいと思うんですよ。ハードコアパンクは、そういうことを言いやすい環境や文化がある。同じように感じてくれる人たちも周りも多かったですしね。

— 当事者意識を持ちはじめた時期が、いろいろ誘われてちょうど出せる時期だったということですね。

自分のなかでは未だにノンポリの感覚もあるんですよ。良い意味で「自主性がない」ともいえる。きっかけとして最初に行動したのは後輩ですから(笑)。そこから「俺もやるよ」って乗っかっただけ。そうして「TO FUTURE」という平和活動を始めて、その流れで災害ボランティアに行き、一日で終わるはずが後輩たちに担ぎ上げられて現在まで続けています。何だか受け身の連続なんですけど、「悪い受け身でもないかな」と思って。何かしら必要とされているところに、たまたま自分がタイミングでいたのかなって思っています。




----GUYさんのクッションバッグが完成しました

GUYさんの再結成時につくったバンドTシャツをループケアし、クッションバッグに仕立て直しました。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

PROFILE

PROFILE

GUY

disk shop Misery オーナー

1965年生まれ
広島を拠点に、ハードコアパンクのミュージックシーンで活躍。
80年代には愚鈍のベーシストとして、その後89年には音楽レーベルBloodsuckerを設立、93年にはレコードショップ「disk shop Misery」をオープン。
現在はハードコアパンクバンド「Origin of M」のボーカリストとしてと、さまざまな活動を通してハードコアパンクの世界を牽引している。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

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