高山尚也さん
と
京都の師匠からもらった
ストライプのシャツ
23.07.28
HIROSHIMA
かつて多くの仏壇や漆の店が軒を連ねた「仏だん通り」にある、創業100年を超える仏壇・仏具店「高山清」。4代目である高山尚也さんは、漆塗りの修業を経て、寺院の建具、仏具の修復を手掛け、2017年からは漆芸作家としても活動し、様々な賞を受賞している。2023年5月に広島で開催されたG7サミットでは、各国首脳のパートナーに贈呈されるお椀を手掛けた。BMXに熱中した青年、高山さんが修行時代に師匠からもらったシャツと辿った作家の道。
--修行以前のストリート・ライフ
「20年以上前の高校生の頃からずっと自転車のBMXをやっていて、広島の千田公園で遊んでいました。子どもが生まれてやらなくなってしまいましたが」
スケートボードのように様々なトリックをしていく自転車BMX。その名前が、漆芸作家から飛び出し、眼の前の高山さんと周りに飾られる漆の美しい作品が結びつかなかった。でも、ハーフパンツから伸びる足には歴戦の跡が見えた。
「19歳の頃に全国でBMXブームが来て、年齢も様々な十人くらい仲いいのが集まってやっていました。当時広島にはスケート・パークがあんまりなくて、僕らはもっぱらストリートで飛んだり跳ねたり」
漆の師匠がいる京都へ修行に行くことになり、最初の1〜2年は乗らずに仕事に集中した。落ち着いてまた乗りはじめると、京都には広島よりも多くのライダーがおり、東京オリンピックのBMX Parkで5位に入った中村輪夢のお父さん(中村辰司)らと知り合い一緒に遊んでいたこともあったという。
「けっこう無茶な乗り方もしてましたね。ブレーキ無しで山から降りてきたり、10個連続のジャンプ台飛んだり。ある日、ジャンプランプで転んで骨折。それで『もうやめよう』と思って。それまでも年に2回くらいはヒビ入ったりもして、怪我はつきものでしたね」
まだ修行中の身、手をけがしたら大変なことになるのではないかと心配したが。
「なんも考えてなくて、肘は折ったことがあります。でももうシレーッとしてました(笑)。ランプをジャンプして下りるのが怖くなる時があって。躊躇したら危ないんです。だからそろそろ潮時かなって」
--師匠にもらったストライプシャツ
今回LOOP CAREするシャツは、京都での修行時代に着ていたものだ。
「親方からもらったんです。京都時代は住み込みで働いていたんですが、着るものがなくていつも同じ服を着ていたら、親方が着ていたものなのか、着ていない服があったのか『これやるよ』と。当時の自分には大きかったけどずっと着ていましたね」
高山さんはシャツを気に入って、その後十数年に渡ってこのシャツを着続けた。
「白とこの模様がすごく気に入って仕事中だけじゃなく、普段も着ていました。Tシャツは仕事で着ていると破れてしまっていたんですが、なぜかこのシャツは破けず十年以上生き残りました(笑)」
--師匠という存在
京都の漆芸は分業制で細かく別れている。高山さんが弟子入りしたのは、仏具の修復を中心に研ぎを専門とする工房だった。
「職人はだいたいそうですが、親方も変わってるのは変わってましたね。もともと炭鉱出身の人で、炭鉱の仕事が無くなるからと京都に来て、そこで弟子入りして今までやってきた。責任感は強かった。『納期に遅れちゃだめだ』とか『受けた仕事は絶対にやらなきゃだめだ』とか。親方と二人だったのでけっこう忙しかったですね。でもあまり教えてもらうということもなかったんですよ」
弟子入りして、マンツーマンだったのに教えてもらえずにどうやって仕事を覚えていったのだろうか。最初見学のつもりで行った現場では、驚きの始まりと展開があった。
親方:「見よるだけじゃわからないから、そこに座って作業しなさい」
高山:「なにをしたらいいですか?」
親方:「そこに座って研ぐだけだよ、こんな感じで」
と言われて燃せてもらった後は見様見真似でやった。時間が経つと、
親方:「今日はもう帰りなさい」
高山:「はい。明日も来たほうがいいですか?」
親方:「じゃあ何時に」
と返事のまま翌日工房に行き、また夜になると明日はというやりとり。半年くらい続けていたある日、この一言で正式に働き始めることとなる。
親方:「勤めてみるか?」
--ある時気づく、できるようになったという感覚
想像できない職人の世界。まさに目で見て、真似をして覚えるという実践型の指導方法だけれど、どうやって技術として身についてきたのだろうか。
「炭をあてて研ぐ、炭研ぎというのをやるのですが、ずっと同じ作業なわけです。朝8時から夜10時までずーっと研ぎ続ける。で、『ああ、研げました』と師匠に見せると『こことここ』と修正指示があって、直してまた見せて直しての繰り返し。これでいいのか悪いのかも聞かずにひたすらやり続けて、何か月か経った時に、『あっ! 研げてる』とわかったんです」
その感覚は、誰に教わるでもなく練習を続けていく中で技を覚えてきた、BMXの感覚と似ているという。
「ネットもなく、ビデオを見たり写真から推測したりしながら、正しいかどうかはわからないけど友だちと集まってトライしていくうちにコツを掴み、それをみんなでシェアしてだんだん上手くなってきたわけです。だから修行も『ああ、できるようになったこの感覚わかる』って(笑)」
手取り足取り説明をしてもらいながら教えてもらうのではなく、自分から学ぶということ。京都時代に学んだのは、自立して職人として生きていくための根本のようなことだった。徐々に仕事のスピードが上がり、2年ほど過ぎた頃、「かなり研げるようになったねえ」と褒められるところまで成長した。
「二年は早い方だったと思います。研いで、漆を塗って、また磨きという全行程をひとりでできるようになって、一人で現場に行くようにもなりました。そこから辞めるまでの4年は、作るたびに違いがでないよう、癖づけていかなくちゃいけない。基礎的な土台をしっかり固めるこの時期の方が長くかかります」
--京都→広島→鹿児島→広島
6年の修行を終えて、仏壇の製造、修復を手掛ける広島の実家に戻ってくる。研ぎだけを専門にやってきた京都時代。一方ひとりで完結したものづくりができる技術を身に着けようと、鹿児島での修行を経験する。
「京都は職人の「工房」だったのが、鹿児島は「工場」という感じ。両方のスタイルを見れたことで学んだことも多いですね。機械より手で作るほうがクオリティの高いものを作れることにもすごい感動しました」
10年ほど前から塗る工程もやり始める。
「それまで研ぐ仕事をやっていてよかったと思いました。研いだら塗師屋が塗った刷毛目が全部出るんです。“塗師屋がどう塗ったか”が全部頭の中にあったので、こう塗ったらいいというのが頭に入っていた。それをトレースするように塗る練習をしましたが、そんなに苦労はなくて、ここまでの修行が生きてきたと思いました」
--漆芸作家をはじめる
2017年、仏具修復の仕事でお寺に行った時、「お椀を直してくれないか」とお願いされたことがあった。それまでは忙しかったことを理由に断っていたが、落ち着いたタイミングだったこともあり、引き受けた。そこで作家になる大きなきっかけとなる驚きがあった。
「今まで作って、修復してきた仏具はなるべく指紋や油がつかないように納めるもので、はじめて直に手で触る生活のものを作った時に、自分の作ったものにびっくりしたんです。自分のお椀を作ってご飯を食べてみて、『ああ、器でこんなに変わるのか』と。漆のよさと自分の仕事を“実感した”。そこから自分のものを作り始めました。子どもも『ああ、おいしい。違うねえ!』とか言ってくれて(笑)」
とはいえ、漆の器を作るのは手間がかかる上に、売り物にするには値段が高くなる。でも高ければ無名作家は売れない。でも手は抜きたくない。そんなジレンマを相談していたら、「作家になったら?」と進められ、漆芸作家としての活動を始めた。
「始めたらどんどんハマっていきましたが、最初の一年は、器もバランスが悪くて中途半端なものでした。やり続け、他の作家のことを研究したりする中で成長してきた4年間でした」
職人同士のやりとりしかない仏壇の業界では知り合えなかったたくさんの人と交流が生まれ、考え方やアイディアにも次第に変化が訪れる。
「仏具のような伝統工芸は“こういうふうに作らなきゃいけない”という形がある。一方で器は自由。“伝統”という言葉に縛られていたんじゃないかなと。それがある時、『自由に作ってるね』と言ってもらえたことがあった。SF映画が好きで、ブラックホールをイメージしてSF映画に出てきそうな未来的なものを作ったりもしました。伝統工芸展の世界ではそういうコンセプトは表立って言わないですけどね(笑)」
--消えた職人街とこれからのものづくり
漆芸作家としての活動はやりながら、仏壇制作の仕事も変わらず続けている。家に仏壇を置く人も減ってきた中、これからの工芸の世界をどう考えているのだろう。
「需要が減れば職人は減ります。家にある仏壇にしても、お寺にあるいろいろな仏具にしても、みんなが集まって作っています。広島は仏壇制作が七師(7つの専門職)に分かれているのですが、僕だけが若くても他の職人が年配で一人でも欠けたら完成までたどり着けないわけです。京都では寺社仏閣もたくさんあって、国の保護化にある文化財もあるから大丈夫ですが、広島では僕らの年代を最後に、あと十年くらいが区切りかもしれません」
広島には、高山さんの実家でもある高山清を含めたくさんあったという。第二次大戦による原爆投下によって職人も職人の街の多くも消失。高山さんの実家が再開できたのも、高山さんのおじいさんが戦争から戻ってきたからだったという。
「いま仏壇屋をやっているのはうちの通りで四軒。僕が広島に帰ってきた時は、まだ八軒あったので十数年で半分になった。自分が作家になったのも、そういう現実を見て何とかしなくちゃいけないという思いもあったからでした。変わっていかなきゃいけないと思っています」
G7サミットで各国首脳のパートナーに贈呈されたお椀
--高山尚也さんのカードケースが完成しました
高山尚也さんの京都の師匠からもらったストライプのシャツをループケアし、カードケースに仕立て直しました。
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
高山尚也
漆芸作家
仏壇・仏具店「高山清」4代目
京都の漆塗の伝統の技を学び、塗師の技にさらに磨きをかけ、蝋色の技法を取り入れ独自性の強い作品を生み出す。
創業者高山清の伝統技術に対する技と心を受け継ぎ、数々の賞を受賞。
日常で利用できる漆器は、天然素材のみを使い、洗練された漆塗りの質感を表現している。
受賞歴
2019年 第62回日本伝統工芸中国支部展 入選
2019年 二〇一九 播磨・工芸ビエンナーレ 入選
2019年 第16回ひろしまグッドデザイン 奨励賞
2020年 第37回日本伝統漆芸展 入選
2020年 第45回全日本伝統的工芸品公募展
日本商工会議所会頭賞
2020年 第63回日本伝統工芸中国支部展
広島県知事賞
2021年 第38回日本伝統漆芸展 朝日新聞社賞
2021年 第64回日本伝統工芸中国支部展山陽新聞社賞
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
原田健次さんと
店を始めた時に作った
エプロン
地粉うどん店 わだち草 店主
20.05.28
峠一平さんと
履けなくなった
パンツ
美容師
21.03.18
峠優さんと
長女のための
手作りワンピース
美容師
21.04.28
柚木藍子さんと
長女が1歳から着ていた
大きめTシャツ
Photo Studio Marque代表
21.11.18
柳谷環さんと
母がつくってくれた
スカート
千差株式会社代表取締役
22.01.08
森川公美さんと
神主だったお父さんの
装束
広島交響楽団 フルート奏者
21.02.08
森脇靖さんと
インドでもらった
ジャケット
陶工
21.06.18
櫻木直美さんと
長女の入園時に作った
レッスンバッグ
株式会社マアル 代表取締役
20.08.28
稲垣友美さんと
特別にオーダーした
ワンピース
SSca:CNC工作機械プログラマー
20.07.08
原田健次さんと
店を始めた時に作った
エプロン
地粉うどん店 わだち草 店主
20.05.28
峠一平さんと
履けなくなった
パンツ
美容師
21.03.18
峠優さんと
長女のための
手作りワンピース
美容師
21.04.28
柚木藍子さんと
長女が1歳から着ていた
大きめTシャツ
Photo Studio Marque代表
21.11.18
柳谷環さんと
母がつくってくれた
スカート
千差株式会社代表取締役
22.01.08
森川公美さんと
神主だったお父さんの
装束
広島交響楽団 フルート奏者
21.02.08
森脇靖さんと
インドでもらった
ジャケット
陶工
21.06.18
櫻木直美さんと
長女の入園時に作った
レッスンバッグ
株式会社マアル 代表取締役
20.08.28
稲垣友美さんと
特別にオーダーした
ワンピース
SSca:CNC工作機械プログラマー
20.07.08
商品毎に、1回分の無料修繕サービス(リペア券)がご利用いただけます。
完成品といっしょにリペア券をお届けいたします。