杉本拓史さん
と
NZ遊学を共に過ごした
フリース
19.02.05
HIROSHIMA
16年7月にオープンした料理屋「野趣 拓」の料理人、杉本拓史さんは、1984年広島に生まれた。共働きの両親のもと、幼いころから台所に立つ機会も多く、料理は極めて日常の中にあった。中学時代に思い描いた夢は鮨職人だったそうだ。フリースを来て旅したニュージーランド遊学が今の姿の転換点でもあった。
--地元の鮨屋と『将太の寿司』
「実家の近くにある鮨屋にハレの日とかによく行っていました。町の鮨屋なので、握り以外も何でもあるようなお店でしたが、おいしくて、鮨屋だけどいろいろな料理が作れる料理人に憧れました。それ以前を辿ると、子どもの頃から魚釣りが好きで、小学生の頃から釣った魚をさばいて家族に食べさせることもよくしていました。親が喜んでおいしいおいしいと言ってくれて、それが楽しかった。それで料理を目指すようになったんだと思います。あとは『将太の寿司』!」
料理人になることを決めた杉本さんは、高校も行かず働きに出ようかとも考えたが、さすがに高校は行きなさいと両親に止められ、進学する。そのまま高校時代の3年間も気持ちは変わらなかった。
「サッカーばかりで全然勉強はしていませんでした。卒業したら料理の世界に行くから勉強しなくていいと思っていたんです。高校は進学校だったので、400人くらいいた同級生のうち、進学しなかったの多分僕と不登校だった人の2人。積極的に行かなかったのは自分だけだったかもしれません。そんな状況だったので、学校に就職情報がほとんどなくて、図書館に行って『調理師になるには』みたいな本を読んで、そこに載っていた和食のお店に自分で電話をしました。」
そのお店とは、なんと京都の名店「菊乃井」。杉本さんはそこで働くことになる。
--菊乃井で過ごした5年間
「電話をしたのが12月で遅かった。6月頃には調理師学校卒の人たちなどで、すでに募集は埋まっていて、今更という感じだったんです。どうにか女将さんに繋いでもらい、ちょうど年末におせちの仕込みがあるから、それを手伝ってと声をかけてもらいました。行きます!となって、終業式が終わった次の日に京都へ行き、1週間の約束が結局31日まで仕事をしました。それが終わってから、『じゃあ、来年の春から』と入れてもらうことになったんです。」
面接を兼ねたバイトだったのかもしれない。
「今、思うと菊乃井を知らずに働きに行くなんて恐ろしいですよね。よく入れてくれたなと思います。後輩もたくさん入ってきましたけど、後にも先にも僕みたいに調理科でもなければ、なにも知らないという人はいなかったと思います。」
調理師学校に行かなかった杉本さんだが、高校三年の時、実は体験入学を申し込んでおり、専門学校への進学も頭の片隅にはあった。ところが、まさかの事態になり、杉本さんは諦めることにした。
「高校三年の夏休みに、大阪の辻という調理の専門学校に体験入学を申し込んだんです。夏休みに原付きで広島から大阪へ向かったんですが、その時、大阪に辻調理師学校と辻学園という辻と名の付く学校が二つあることを知ったんです。どっちに申し込んだのかわからなくなり、勘で行ってみたら、申込みはないと。あぁ、これは縁がないんだなと。そこで調理学校に行くのは完全にやめました。」
菊乃井では5年間働いた。5年は菊乃井で働いたことが認められる最低限の期間。
「5年続けなきゃ、経歴として認めないという感じですね。5年間は給料もほぼ同じ、6年目から一気に上がります。5年間以上働くと辞める時、菊乃井の名前が入った包丁がもらえるんです。だから絶対5年間は続けようと思って働いてました。」
同期は5人いたが、異動した人を除けば半年で杉本さんひとりになった。仲もあまりいいわけではなく、辛さを分散させることもできなかった。ひとつ下の代はみなで協力し辞めずに残ったそうだ。同期にライバル意識もあった。
「一番辛かったのは拘束時間の長さと睡眠不足ですね。入ってすぐは、3、4時間が当たり前でした。あと、今は変わってきていると思いますが、完全縦社会なので、現場はとても厳しかった。ただ、同期がいなくなった分、お店の中で経験できることは順調にさせてもらえたと思っています。きつかったですけどね(笑)。」
『将太の寿司』で厳しい現場は覚悟していたと笑いながら話してくれたが、修行という言葉が使われる職業の現場はやはり厳しいものだった。5年間の期間を過ぎた杉本さんは限界に達していた。
「とにかく、辞めたかった。5年目からが大事だということも重々わかってたんですけど、もう無理でした。5年いないと次には行けないぞと気力で続け、6年目に辞めました。菊乃井にはお店を開ける時や結婚の時など、今でも節目節目であいさつに行ってます。」
杉本さんが辞める際の一連のことは、たまたま撮影に入っていたNHKの番組で放送されたという。
「辞めたいですと話して、説得されて、やっぱり頑張りますというやり取りがNHKで放送されたんですが、後日談がありました。やっぱり気持ちが折れてしまっていて、続けられずに辞めることになったんです。そうした時、大将から『洞爺湖サミットがあって先輩が料理長で行っているから2週間だけ手伝ってこい、それで終わりだ』と話をもらいました。辞められることがうれしすぎて、気持ちはふわふわ。そんなままで各国のVIPが集まる超緊張感のあるサミットの現場に入って、自分だけふわふわして、ひどい仕事ぶりだったんです。現場でめちゃくちゃ怒られて、京都に戻って大将にも怒られ、気持ちよく辞めるはずが、出て行けみたいなことになってしまいました。」
せっかく耐えて掴んだ5年間がこんなかたちで終わっていくのか。杉本さんはこのままではまずいと、大将にもう一度会ってほしいと頼み込んで時間をもらい、無事飛び立つことができた。
「辞めてから最初のあいさつに行くときは本当に緊張しました。ただ、大将は僕みたいな若造を何百人と見てきてわかっている。思い出すだけでも、あのことはなんかちょっとジーンと来ます。」
--料理から離れたかったニュージーランド遊学。でも……
杉本さんは、その後1年間ニュージーランド(NZ)にワーキングホリデービザで渡航。ずっと抱えていた海外で暮らしてみたいという思いを実現させる。
「料理もせずにのんびりしたいと思って、とにかく大自然があってゆっくりできそうなNZにしました。ちゃんと調べたというより漠然としたイメージでした。菊乃井も知らずに行ったみたいに、結構イメージで動くことが多いですね(笑)。NZは南半球ですごい温かい国というイメージだったのにめちゃくちゃ寒かった。日本と季節が逆なだけなんですよね(笑)」
「最初の1カ月くらいは語学学校に通った後、登録された有機農家を回って働き、その分の宿とご飯を賄ってもらえる WWOOF(ウーフ)という取り組みに参加して、バックパックで2カ月ごとにホストを巡りました。そうすると英語を喋れない僕は、結局そこで料理をせざるをえないんです。唯一コミュニケーションできる方法が料理だった。料理をすると、めちゃくちゃかわいがってくれるんです。巻き寿司とか唐揚げとか肉じゃがとか、そんなので全然OK。新しいホストに行くと、まずその日の晩御飯は僕が作るからと話して、ああ、じゃあよろしくとなる。あるもので適当に作ったら、もうそれで『なんて素晴らしいんだ。おまえ、一生いていいぞ』みたいになっていました。」
料理は人を助ける。
「喜んでもらえることが自分の喜びにもなりました。料理を作ってこれだけ喜んでもらえる。NZは食材の宝庫で、野菜も肉も魚もすごくよかった。NZでやっぱりこれからも料理を続けていこうと覚悟が決まったんです。やっぱり料理が楽しいなと。今まではどれだけ素晴らしい料理を作っても厨房にいるだけでお客さんの顔が見えなかった。自分の技術が上がる喜びだけがありました。技術向上ばかりに意識がいって、食べる人のことを考えることができなくなっていたんです。NZでもらったダイレクトな反応に、自分が家族に魚をさばいて出した時の感覚を思い出したのかもしれません。」
--自分の城、地の食材、基本のき
自分の店を出す時は、いつか必ず地元でやりたいと思っていた杉本さんは、帰国後一度広島に戻り。縁あってNZ渡航直前に働かせてもらっていたお店で再び働き始める。
「6年半働きました。その間に結婚したり、子どもが産まれたりということもありました。いつかは独立をしたいなと思いながらも、そのお店は家族がいる人間にとって本当に働きやすかった。生産者と直接つながって食材を集めて、全てを使い切ろう、皮も剥かず、葉っぱも付けたまま、しっかりエネルギーのある食材を使うというのが大将の方針でした。広島の食のことを深く知ることができて、愛着がどんどん湧いた6年半でしたね。広島の一番素晴らしいところは、全てがあることだと思うんです。温暖な瀬戸内もあるし、中国山地の寒い場所もある。リンゴとミカンは両方とも広島特産なんですけど、この2つは相反する環境で育つものなんですよね。全てを食べるということを学んで、それは「野趣」と名付けた自分のお店のでも息づいています。」
大将がいて二番手の杉本さんがいるというお店だったため、杉本さんに代わる次が育ってきたタイミングで独立を決める。2016年「野趣 拓」をオープンさせた。
「菊乃井の5年間は、とにかく本物に触れることができました。本当にクラシックで基本的なだしの取り方をとにかく丁寧にやる。高級料亭だったので、食材もいいもののいい部分を使っていました。食材も器も設えも、接客も、もちろん料理も本物しかない環境でずっとやらせてもらえたことは、自分の中で一番の財産です。当たり前のレベルがとても高かった。料理人にとって環境は大事です。最初の料理の世界で口にするもののレベルが高いか低いかで舌の鍛えられ方が変わる。何を自分がおいしいと判断できるのかみたいなところも。」
お客さんの顔が見えなかった菊乃井時代、目の前の喜んでくれる人を再発見したNZ時代、広島に戻ってきて初めてお客さんの顔を見ながら働いた時代。そして味も接客もすべて自分にかえってくる自分のお店の時代へ。
「最高ですよ。プレッシャーもすごいし、大変でしんどいなと思うけど、でもやっぱり全部、自分に返ってくる。自分で考えて、自分で作って、自分が評価されるというのは、自分がトップでやらないと味わえるものじゃない。満足感があるというか、充実しています。」
料理は基本に忠実に。修行で学んだことは昔から受け継がれてきたことで、それは理にかなっていることが多い。時間が洗練させた技術と知恵。辛かった経験が実はこうして杉本さんの今を支えている。
「何を作るかは食材を見てから考えます。探せば年中何でも手に入る時代ですが、野菜は特に地のものしか使いません。肌で感じる季節と野菜の旬が完全にリンクするもの。無理のない、本当に身の回りにあるものをしっかり料理にしていこうと思っているので、眼の前に出てきた食材で何を作るか考えます。なくなったらもう作らず、次のものをまた考える。」
--ニュージーランド滞在中、守ってくれたフリース
シェルフにループケアするフリースは、料理の道へと戻ることを決心させたNZで着ていた時のものだ。
「滞在していた農家のおばちゃんにもらったんです。寒いからこれ着ていいよって。最初に行った農場だったのですが、そこで料理を振舞ったら喜ばれ、かわいがってくれるというのを経験したんです。充実感を得ることもできた。ずっとこれを着てましたね。最近までこれを着て仕込みもしていました。」
NZではうなぎ釣りをよくした。ヨーロッパオオウナギというとても大きなうなぎが釣れた。そのまま食べてもおいしくないと言われていたため現地の人は殆ど食べず、いくらでも釣れたのだそうだ。
「まずいと言われていたけれど、実際はおいしく食べる方法があるんです。だからそれを僕がやってみせると、すごい!と褒められる。あんなに簡単に釣れるあの魚がこんなにおいしく……!って。油がすごいので皮を全部一度剥いで、油を全部落として焼く。そこから照り焼き的な感じに仕上ていくと、みんな喜ぶ料理になる。漁師のところに滞在した時期もあって、そこでもいろんな魚をさばきましたね。」
--未来の名料理人
杉本さんには、小学校1年生の女の子と保育園年中の男の子の子どもがいる。長女は父と同じ料理人になりたいと言っているという。
「びっくりしました。絶対料理人は嫌だと思ってたんですけどね。店を始める時、娘が年中ぐらいだったんですが、毎日妻がお店に立っていたので、夜、家にいなかった。今までお母さんはいつも家にいたのに、父さんが店を始めた途端にお母さんが家にいないようになった。幼い子どもたちにとっては精神的に辛かったんじゃないかと思ってたんです。僕としても料理人になってほしいとは思っていなかったんですけど、保育園の卒園式でどの小学校に行くかと将来の夢を1人ずつ発表するプログラムがあって、娘が『料理人になります』と言ったんですよ。えー! みたいな。いや、めちゃくちゃうれしかったですよ。でも、料理人はちょっと大変だぞと思ったりもしましたけど(笑)。」
杉本さんがそうだったように、長女も小学1年生にして自分一人で魚をさばいてしまうらしい。何とも頼もしい。これから夢が変わっていくこともあるだろうが、杉本さんのように決めた心を変えずに貫いていけば、父親と同じ仕事もあるかもしれない。まだまだ女性の料理人が少ない日本料理の世界。将来が楽しみだ。
--杉本拓史さんのジッパーシェルフが完成しました
杉本拓史さんのNZ遊学を共に過ごしたフリースをループケアし、ジッパーシェルフに仕立て直しました。
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
サガワユーイチさんと
伝えることを学んだ
高校のYシャツ
スイーツクリエーター
18.11.22
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お母さんが作った
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一級建築士事務所ラーバン代表取締役
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