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下田卓夫さん

お母さんが作った
浴衣

18.09.08
HIROSHIMA

古民家再生や自然エネルギーを上手に使って快適な住居環境をつくるパッシブハウスを推奨し、活動する建築事務所ラーバン代表の下田卓夫さん。広島の島で生まれ育ち、都会に憧れた少年は、東京を経て広島に戻ってきた。豊かな自然の記憶、両親の記憶と思い。思いを継いでいく建築家の家と服のこと。

--原風景としての生まれた島

「今回こうやってお話する機会をもらって、母がつくってくれた浴衣を手に、自分のこれまでを振り返ってみました。」

外国材でなく、地域の木材を使った、エコな木造住宅を中心に、古民家の再生や保存、リノベーションなども手がける広島の建築事務所ラーバンの代表である下田さん、そう言いながら、自らの幼少期を思い出し始めた。

「僕は1952年、大崎下島に生まれたんですね。同じ広島県でも、島は本土広島と文化が違います。生活文化もとても遅れていて、貧しかった。親は教員をしていました。どこも農家で必ず山羊を飼っていたので、おばあちゃんの家に行ったらヤギの乳を搾って沸かし、ちょっと砂糖を入れてだしてくれていました。お菓子みたいなもんですよね。山羊以外にも農耕用に牛と馬を飼っていました。島はミカンの段段畑だったので牛よりも馬の方が適していて、大人たちがよく浜で馬を運動させていたました。」

子どもの遊びといえば、海へ石を投げて誰が早く潜って取ってこれるかというような原始的な遊びしかなかったというが、そうした島の田舎の風景は下田さんの原風景になっている。

--教師だった両親と登校拒否

「中学までは実家から通い、高校から広島市内に出ました。都会に憧れていたのもあって、親の反対を押し切ってとにかく広島に出れればどこの学校でもいいと、わがままを通しましたね。」

ところが、憧れの都会は下田さんにとって必ずしも居心地のいい場所ではなかった。

「今でいう登校拒否。高校時代はほとんど学校に行きませんでした。内気だったんでしょうね。段原のおじいさんのところに預けられて、そこから通っていたんですけど、当時の段原はまだ再開発されていなくて、戦前の下町情緒が色濃く残って,人情味豊かな地域だった。僕はやはりそういうところが好きだったみたい。勉強は嫌いだったし、段原の市場の奥にある映画館に行ったりしていました。ほとんど落第になる寸前で親を呼び出されて、先生からこれ以上欠席すると卒業も進学もできませんと言われて、辛うじて卒業はしたという。なんだか空想にふけっていましたね。一人の時間が多い青春時代でした。」

両親ともに教員だったこともあり、とにかく教育は受けさせるという人たちだったそう。お父さんは体育教師で、昔の師範学校出でとにかく怖い人。指導員の先生と並んで軍隊式だったふたりは青鬼、赤鬼と呼ばれていたそうだ。土日も地域活動やマラソンなど運動部に付き添い、家にいないことが多かった。教育を受けさせると言っていた割に、子どもに対して一切勉強をしろとも言われなかったという。

「ある日、おやじが顔に怪我をして帰ってきたことがありました。自転車通勤だったので、飲んで転んでけがをしたと言うんですが、実は後から聞いたところ、学生たちのお礼参りに会っていたようです。」

赤鬼と恐れられた結果、それ相応の仕返しがやってくるというのも体罰やハラスメントが日々明るみに出てくる今から考えると、マンガのようで現実離れして聞こえるが、かつては皆が承知の上であったことなのだろう。

「一方母親は、昔気質の母親だと思うんだけど、友だちが来ても、親父の仲間たちが夜遅くに突然来ても、家にある物で接待していました。あとは延々と夫婦げんか。それはどこでも、いつの時代も一緒かもしれませんが(笑)」

--東京へ

大学には1年浪人し、工業大学の建築学科に入学。4年間ろくに勉強もせずに遊んでいたが、デザインは好きだった。ある先生がそれを評価してくれて、「君はデザインの道がいいんじゃないか」と言葉をかけてくれた。

「東京の著名な藝術系大学で芸術やデザインの教鞭をとっている先生が講師で教えているYMCAデザイン研究所というのを見つけたんです。いわゆるバウハウス方式で、少人数でいろんな講師の人が来てくれる学校でした。そこを開設した人が広島出身で、その人が推薦してくれたこともあって、住み込みで新聞配達をしながら奨学生として東京での生活をはじめました。」

両親からは「大学を出たらどうするんだ。教員免職取っとるだろうな」と言われ続け、取ったら強引に教員にさせられると思い「取っとる」と嘘をついていたのだが、高校時代からすでに実家を離れていたこともあって、びっくりはされたが大きな叱りを受けることもなかった。「東京へ行ってデザインを勉強する、やりたいことをやる」と伝えたが、「(母親は)言われるままで何も分かってなかったんじゃないかな」という状況だった。

「心配も苦労も掛けました。東京に行って1度か2度、親が訪ねてきたことがありました。普段は音信不通でしたから。とにかく健康でおるんか、なんかあったらいけんけん保険に入っとけって。家は住み込みだったので、とにかく元気でやっとけよって。」

--苗場で出会った未来の妻

「2年間のデザインの勉強はすごく楽しかった。現職のアーティストやデザイナーの人たちが講師に来てくれて、刺激を受けました。事務局の人や先生たちも熱心だった。有名な人はあまり出ていないけど、本当に思い出がいっぱいあります。普通は2年通って就職するわけですけど、僕は建築をするために来たのでデザイン関係の会社には行きませんと言って、そしたら建築関係に行くなら建築学科に話をしなきゃだけど、間に合わないからもう1年待っときなさいと。でも生活をしなくちゃいけないからって知り合いの先輩を通して設計事務所に入れてもらって、6、7年働かせてもらいました。」

その設計事務所で働いた時代に出会ったのが、東京の大学を出て、日本橋の三井金属に勤務していた今の奥さまだ。元々静岡出身の奥さまにとって広島はまったく知らない土地、昔はよく「なんで私が広島に」と言っていたそうだ。どうやら下田さんは奥さまに広島に戻るということを話していなかったらしい。

「勤務時代、苗場にスキーに行こうとなったことがありました。友人に段取りをしてもらったんですけど、男ばっかりじゃ楽しくないと、知り合いを誘ったら妻が一緒に来て、そこではじめて会いました。私が27歳の頃、結婚しようとなって親御さんに挨拶に行ったんです。伊豆の下田に実家があって、娘さんをくださいと話したら、教員だったお父さんからはバツが……。後から聞いた話ですが、義父は自分が長男だったこともあって、自分のやりたいことができずに地元に帰らざるを得なかった人だったそうで、改めて話に行った時『君は何をやりたいんだ』『独立して建築設計事務所を開きたい。すぐにはできんけど、広島に帰ってやっていきたい』と話をしました。それでお父さんが許してくれました。広島に帰るというのは、僕自身は元々決めていたんですが、妻には話していなかったみたいで、『え、広島?』となったようです(笑)。」

--故郷広島へ、そして独立。

建築事務所勤務時代は、忙しく月のうち1週間は家に帰らず、製図板の下に寝るような生活。
6、7年勤めた30歳頃、このままじゃ何のために出てきたのかと奮起し、仕事も何もないけど広島の実家に帰ると長男と家内を引き連れて取りあえず引っ越しを行った。

「広島の駅前にあった4畳半の木賃アパートを収入もないのに借りて事務所にし、電話1本と事務所登録だけをしました。それが夢の原点だと覚悟を決めてやったけども、1年間ちょっとでギブアップでした。仕事がなくて食えず、友だちの事務所から図面1枚いくらという仕事をもらったりしていました。妻子を実家に預けてほったらかしだったので当然関係もごちゃごちゃしてきますよね。それで広島に10階建ての市営住宅ができるというので、これを機会に住まいも市内に転居しました。」

同時期に友人の先輩が都市計画のコンサル会社をつくるから建築面で協力してほしいと誘われて入社。公共事業の多かったその会社で、営業で仕事を取るということを学ぶ。40歳での独立を考えながら忙しく働いていた時、体を壊して入院してしまう。

「42歳だったかな。そこで人生を振り返って、これを機に退職して自分のペースでやっていきたいと会社に相談しました。独立して、知り合いのオフィスの一角に机を置いて再スタート。それまでにできた人脈や実績で仕事が来て、段々と食えるようになっていきました。」

--大切な“あの木”を使いたいという思い

「自分でやるなら原点に返って木を使った建築をやることにしました。県の林務の人が、『今から県産材を活用していく計画がある。10年、20年先には山が荒廃してしまうから、活用方法を考えてほしい』という話があって、木を使うことが環境にいいということを分析して数値化し、県にどんどん企画して、県産材、地域材を使う建築を始めました。ますます木にほれ込んでいきました。」

ところが、下田さんがやろうとしていたことを実現するにはほとんどの工務店や製材所では流儀や知識に違いがあった。下田さんは、施主の故郷の木や自分の持ち山の木、あるいはキャンプに行ったあの山の木といった特定の由来のある木を使った住宅建築を考えていたが、工務店も製材所もどこも応えてくれない。「この木はどこの木ですか」「四国だろう」程度。流通の段階で一山いくらみたいな売り方をして木を混ぜてしまうため詳細がわからないのだそうだ。

「だから僕は切りたい木のある山の森林組合を訪ねて、ここら辺の山の木で家を造りたいんだと話をして、森林組合に伐採してもらって買ってくるようにしたんです。最初は製材所に行っても信用されんですよね。ばかにされることもありました。街の建築事務所の先生じゃいっても、木のこと何も知らんのに偉そうに言っているって。だから製材所の人に負けないように勉強しました。」

「認めてもらえるようになってからは、施主の方と使う木を切りに行きましょうとツアーを組んで行っています。時に家族数十人と一緒ということもありました。目の前でものすごい大木を伐採して、これが家の柱になるんだということを知ってもらう。地元の木を使うと、これだけ森も水もきれいになって蘇るし、災害防止になると話をします。太田川のおかげで広島は本当に水が豊か。だからその流域の木を使いましょうとずっと啓発してきました。」

ところが最近、若い施主の場合、森へ行くことを提案しても「いや、大丈夫です」と断れることもあるという。

「あの山のあの木を使ったという物語はいらないというのは、僕には想像力がなくなってるように思えてしまうことがある。断片的な情報だけで、もう知ってますみたいな。なんでそういうものが生まれてきたのか、それが自分にとってどういう存在なのか、今後それがどうつながっていくかということはあまり考えないのかなあ。うちの若いスタッフや息子に言っても、特に不思議に思わないみたいです。」

--古民家を再生する理由

下田さんは今でも有効な、古くから使われてきた技術や知恵をできる限り使いながら、現代に残していこうとしている。その一つが古民家であり、もう一つはその古民家に備わっているパッシブハウスの考えだ。

「CO2対策として、高気密・高断熱にして使用電力を削減する流れがあります。でも、高気密・高断熱にしてエアコンと空調の稼働量を減らしてCO2を削減するというのは、住宅として違うんじゃないかなと。窓を開けたら風通しが良くて、日が入ってきたら日だまりで暖かくなる。寒さと暑さを適度に家の中に入れていくあり方をパッシブといいます。日本民家はそもそもパッシブに作られているんです。庇で直射を防いだり、逆に冬は日が入るようにしたり。その庇は雨風もしのぐ。風土に合った建築の基本をちゃんと伝えていきたい。そういう時代がまた戻ってきていると思います。古民家にはその全てがあると思う。」

現在の事務所は、築80年の古民家の納屋をリノベーションして使っている。母屋は住居に、土蔵はギャラリーにした。

「蔵が世界的にもパッシブな建築として再評価されているんですが、いまの事務所の土地を買った時、古民家と蔵が建っていました。隣近所のみなさんに『壊さんでくれ』と話をされて、『これは残しますよ』と言うとすごい喜んでくれた。昔からここは辻角の蔵が目印みたいになっていたんです。」

「服は身にまとって温度調節をするものであり、自分の身を守るものでもあります。僕は、建築いうのは大きく家族を守るものだと思っています。住宅というのは安らぎの場であったり、家族の思い出の場だったり、家族の器です。だからおせっかいだけど、この柱になる木を見に行きませんかということをやりたい。思い出や未来をつくるわけじゃないですか。住宅は家族の記憶をつなぐものだという思いがあるんです。」

--母は何を思って作ってくれたのだろうか

今回ループケアするのは下田さんのお母さんが作ってくれた浴衣を日傘にする。貧しい島の生活にあって、お母さんは下田さんと下田さんのお兄さんに用意してくれたものだ。

「田舎の島でもあったので、物質的には貧しい生活でした。ただ、母にはできることだけはしてあげたいという思いがあった。それが親としての責任というか。一生懸命、副業しながらのお金をやりくりしたんだろうなって。そうやって親からしてもらったから、自分も子どもにしてあげたいと思うじゃないですか。母の思いは励ましになり、自分を律する規範にもなりました。浴衣は夏、田舎へ帰った時に浴衣を着てお祭りに行ったりしました。アンサンブルも作ってくれたんですが、いまはどちらも着なくなりました。着た最後の記憶は数十年前で、この浴衣だったと思います。そう考えると、浴衣や着物は母が作ってくれたものしか着たことがないんですね。」

浴衣をつくってくれたお母さんはいま痴呆がはじまり、記憶が続かないという。今回作りなおす浴衣をきっかけになるかもしれない。

「作った人の意図を知っていたら、深みや愛着も違ってくるんだろうけど、母は特別何も伝えずに着物を作ることが母親としてのやってあげることという思いがあったのかもしれません。写真を持っていくと、痴呆でも一瞬思い出すことがあります。あまり持続はしないんですが、作り直した傘をもってちょっと話ししてみようかな。」




--下田卓夫さんの日傘が完成しました

下田卓夫さんのお母様が作った浴衣をループケアし、日傘に仕立て直しました。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

PROFILE

PROFILE

下田卓夫

一級建築士事務所ラーバン 代表取締役

1952年広島生まれ
大学卒業後、東京で建築デザインを学び建築設計の仕事に就く。
その後広島に戻り1995年、一級建築士事務所ラーバンを設立 。
「地域の環境にいい建築をつくることが地域や人を育む」をビジョンに掲げ多方面で活躍をしている。
■ひろしま街づくりデザイン賞受賞
■フォレストモア 木の国日本の家 優秀賞 受賞
■国土交通大臣表彰
■2013年2月および2014年5月、テレビ朝日系列「大改造!! 劇的ビフォーアフター」に匠として2年連続出演。 ひろしま・県流域木材利用ネットワーク「太田川流域の木で家をつくる会」代表事務局。「広島 草津まちづくりの会」立ち上げ発起人。
■現在エコで環境にやさしい木造建築

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

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