黒木美佳さん
と
seiji kuroki parisの
シャツ
18.10.28
HIROSHIMA
日本人によるパリ発のブランド「seiji kuroki paris」。 2006年にブランドを終えるまで、夫でありデザイナーの黒木誠司さんとともにブランドをつくってきた黒木美佳さん。ファッション誌の編集者を辞めて渡欧。慣れぬ土地、言葉も話せない中でのブランド経営と15年の海外生活はいったいどんなものだったのだろうか。帰国して12年、いま見ているものは改めて日本の外に向かっていた。
--「装苑」編集者から離れて
黒木さんが夫である誠司さんとロンドンへ渡ったのは91年。英語を勉強しながら9ヶ月を過ごした後、かつて誠司さんが住んでいたことのあるパリへ。2006年に帰国するまで、約15年をパリで過ごしてきた。
海外渡航以前、黒木さんは雑誌の編集者だった。文化服装学院のエディター科を経て文化出版局に入社、メンズモード誌「MR. high fashion」と「装苑」の編集者として活躍した。
「服が好きだけど、アパレルに入りたいとは思わなかったんですよ。ファッション誌が好きで端から端まで読むような子で、いろんな人と知り合いたいし、いろんなことを知りたいと思って雑誌の編集者になりたかった。」
海外へ渡ったのは、「ちょっと住んでみたかったから」。当時はまだ誠司さんと結婚はしてはいなかったが、日本はバブル経済で湧いていた時期、遊びに行く感じだったという。
--粋な援助とブランド設立
「二歳上の主人は、日本でずっとアパレルで企画とデザインをやっていました。ロンドンにいた時は、英語の学校に通いながら古着の買い付けで何とか生活していましたね。主人はやはり自分でブランドがやりたくて、一緒にパリへ。当時、若いデザイナーが小規模に自分たちだけで作るブランドがいろいろと出てきた時期でした。以前TUBEのデザイナーの斉藤久夫さんに相談したことがあったんですが、斉藤さんがパリに遊びにきた時、いいホテルに泊まれるような人なのにうちにわざわざ泊まってくれて、宿泊代とか言ってブランドを始めるための資金を援助してくれたんです。それでミシンと生地を買って、服を作り始めました。」
タイミングよく友人のデザイナーがファッションショーを企画したため参加。せっかくなので展示会もやろうと、日本の知人のバイヤーたちにも案内を出し、自宅で開催することに。最初に買い付けしてくれたのは、現在も日本を代表するセレクトショップの看板バイヤーだったK氏。そして今は閉めてしまったが、90年代大きな人気を誇った裏原(裏原宿)系のセレクトショップの社長も気に入って買い付けてくれたりと順調なスタートだった。
徐々に自分たちだけで裁断、縫製までやり続けることに限界がきたため、工場にお願いしようとしたが、まだ法人化もしておらず信用もなかった黒木さんたちは、現金のみでの取引。コレクションブランドも作っているいい工場だったが、裏ではブランドの古いパターンを勝手に使って、裏で流したりもしていたというから、そんなことがと思いながらも、90年台のユルさを感じさせるエピソードでもある。
いよいよ法人化の必要に迫られたが、正式なビザもなかった黒木さんたちは途方にくれてしまう。そんな時、助けてくれたのはかつての会社の先輩だった。先輩がパリで会社を設立できるビザを取得しており、先輩が立ち上げる形で会社を設立。当時を振り返って黒木さん。
「やっぱり大変ではありました。見えてる世界の何倍も仕事があって、楽しいことがつらいことよりちょっとだけ上にあるみたいな感じでした。かつてプレスとして優遇されていたんだなってことがわかりました。作るほうになって、周囲にいろいろやってもらわなきゃいけない立場になったら周りの反応は全然違いました。フランス語もろくにわからず、最初は本当にいいかげんにされたりもして、工場は納期なんて全然知らん顔だったり、乗り込んで行かないとやってもらえなかったり。展示会はパリとフィレンツェのピッティ・ウォモの二箇所でやっていたので、年に2回で年間4回をコレクションシーズンのスケジュール通りこなしていました。お正月なんか休んだことなかったですね。」
--15年ぶりの日本での生活に涙が流れた
順調にブランドは成長していったが、2006年に日本に帰国し、広島に住むことになる。ブランドもそのタイミングでやめることにした。続ければ続けられたのかもしれないが、ここで休むのもいいかなという結論に達したそうだ。
「そもそもパリが肌に合ったかというとよく分からないんですよ。大好きだったわけでもなく、そんなに長くいるつもりもなかったけど、縁があったのか長くいてしまった。帰国したのは、主人のお父さんが亡くなって、お母さん一人になってしまい、主人もいずれは地元に帰ろうとずっと言っていたこともあって戻りました。子どもを二人生んで、下の子はまだ生後3カ月。私はまだパリで子育てをしたいという気持ちも多少ありました。ブランドは、子どもが生まれて私が十分に手伝えなかったこともあって、この機会にとやめました。」
パリから戻ってきたのは、夫の地元である広島。黒木さんにとって完全に初めての土地だ。もちろん友だちはおらず、戸惑いも悲しみもたくさんあった。
「海外からいきなり田舎と呼べるような地域に引っ越してくるのは、いろんな意味での距離感がすごかった。戻ってきてすぐは、本当に浮ついてるというか、ここはどこなんだろうという状態。朝起きて、『え、あれ、ここどこ』と思って、『あ、朝ごはんのパンを買いに行こう。あ、違うパリじゃない』みたいな。子どもが寝て静かになった夜、意味もなく涙が流れてきたりするんです。悲しいとか何か特別に思っていたわけじゃなく、不意にツーっと流れていました。」
子育てで仕事もできず、周囲との繋がりもない広島での生活に、黒木さんは社会から切り離されてしまったと感じていたという。まだ完全に光明が差してきたという感覚はないかもしれないというが、編集者とブランド経営の経験を活かして、徐々にだが確実にやりたいことを繋げようとしている。
「今いるせとうちホールディングスでは、繊維カンパニーという部署でOEMの企画とパタンナーの仕事をしています。ですが、帰国当時はいろいろと就職活動をしても全然取ってもらえませんでした。パリでブランドやっていた面倒くさそうなやつと思われていたのかもしれません…。ようやくアパレルの会社に雇ってもらえたのですが、結局いろいろやってみても自分がしてきたことの延長でしか仕事ってないんだなと思いましたね。CADは、そこで10歳下の先輩に1から教えてもらいました。すごい厳しかったですよ(笑)。
--伝統産業に見る夢
今までやってきたことが結果的には繋がっていた。編集者としても取材や書く仕事がしたいと思い、知り合いの紹介でコミュニティ新聞「リビング福山」にコラムを書かせてもらうことになった。それは黒木さんのこれからの夢への一歩目でもある。
「パリにいる頃からずっと、日本の伝統産業のデザインを良くして素敵な物に変えたいという思いがずっとあったんです。ヨーロッパではそういう伝統がすごく大事にされていて、どんな小さな物でもリスペクトされていて、進化していたんです。とはいえ個人的にフランスのものはもうずっと見てきて新鮮味はない。私から見たら、日本にある古い物で、泥の中に埋まっちゃってるきれいな宝物があるじゃないかって。その代表的なものが備後絣。それを上手に見せてあげられたら、絶対にみんなその良さが分かるに違いないと思って、この土地の現状を知る意味も含めて、そういうことを取材して、“備後伝統の行方”というテーマでコラムを書かせてもらうことになったんです。備後絣の取材をした時にカイさんにも知り合ったんです。
海外での生活が長かったカイさんは、スウェーデンの工芸学校とフィンランドの大学でテキスタイルの勉強をして帰国、備後絣の織元さんで絣についても学び、テキスタイルデザイナーとして活動をしている。ファッション誌の編集者とファッションブランド経営を経て戻ってきた黒木さんと海外でテキスタイルを学んだ二人は福山という地方で出会う。プライベートですぐに意気投合したという。
「同じように海外から帰ってきていた彼女も同じ思いを持っていて、やっと出会えたという感じで手を取り合い、抱き合って喜びました。備後絣はパリ時代に春夏コレクションのシャツ地として使ったことがあるんです。主人が、うちの実家の方に備後絣っていうのがあるんだよねって、一時帰国した時に織元さんとかいろいろ見て回りました。それで、めちゃくちゃ感銘を受けたんです。柄も北欧とも通じるようなグラフィカルなものがあったりして、シャツにしたら大好評。着ていくとだんだん色が褪せていく、デニムに通じる経年変化する着方も、バイヤーさんが感動してくれました。
「夢があって、備後絣をマリメッコぐらいのものにしたいんです。すぐには難しいですが、じっくりやっていきたい。実は今、仕事とは別に“繊維産地継承プロジェクト委員会”というプロジェクトで副委員長をさせてもらっています。地元の縫製工場やOEMをやっている会社などの有志と一緒に立ち上げた委員会で、人材育成から情報発信、勉強会、伝統産業の継承等、備後地域の繊維に関わるいろいろな物を通した活動をしているのですが、いつかこの活動の延長で絣のブランドができたらおもしろいなと。」
--日本が抱える伝統産業の問題
備後絣を含め伝統産業にはどこにも継続する難しさがつきまとう。デザインの現代化だけでは片付かない複雑に絡み合った問題であることも多い。伝統産業従事者が当事者意識をもって、未来に向かって変えるべきところを変えられるのかということも大事になってくる。
「まずは市場の縮小と、そしてもちろん後継者の問題もある。デニムへ転向した業者も多いですし、結果、備後絣は2社になってしまいました。家族経営のその2社だけになったがゆえに、自分たちの経営と言う意味では何とかなっているということが、変化しづらさではあるかもしれません。本来ならばもっともっと広がる可能性のある特色を持っている素材だとは思うんですけど。将来とか継続性を考えたら、新しいマーケットを作りつつ、若手の育成も並行してやらなきゃいけないという気がします。その意味では、伝統産業だけではなく、今の縫製産業自体も同じ問題に直面しているといえます。人材不足は深刻で、働くひとも海外からの研修生ばかりになり、ある程度覚えたら国へ帰ってしまうため、スキルの蓄積と新しい展開が起きにくくなってしまっているんですよね。」
これは多かれ少なかれ日本全国で発生している問題でもある。伝統的な繊維業ではなく、現代の繊維産業を支える場所である福山は、その利点を生かしかたにこそ未来はありそうだ。
「久留米も絣で有名ですが、私が思うに縫製会社からファスナー屋さん、洗い屋さん、さらに加工をする会社や人たちが本当にいろいろいて、しかもそれらの技術が世界に誇れるものであること、久留米になくてここにあるものがあるとすればそれしかないと思う。総合的なアパレルの町として、繊維産業の町として生きることだと思います。世界の町工場として。」
--自分に合わせた自分のブランドのシャツ
黒木さんが作り直すシャツは、パリ時代、自分たちで世界に向けて服作りを行っていたブランド「seiji kuroki paris」のもの。
「メンズブランドだったが、自分用に特別サイズで何かしら毎回作っていました。小さいサイズが欲しいセレクトショップ用に作っていたのを自分が着ることも多かったですね。コートやシャツは特にそうでした。自分のブランドの服は普段よく着てました。フランスには帰国してから一度も行けていません。いつ行けるかまだわかりませんが、必ずどこかのタイミングで」
かつてシャツを備後絣で作って多くの人に喜んでもらったように、今度は備後絣の土地で織りから製品づくりまですべてを行い、ダイレクトに海外と繋がって届けること。パリの思い出が詰まったシャツで作ったアルバムには、日本でこれからできていく思い出が入っていくのかもしれない。
--黒木美佳さんのアルバムが完成しました
黒木美佳さんのseiji kuroki parisのシャツをループケアし、アルバムに仕立て直しました。
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
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18.11.22
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18.06.18
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商品毎に、1回分の無料修繕サービス(リペア券)がご利用いただけます。
完成品といっしょにリペア券をお届けいたします。