サガワユーイチさん
と
伝えることを学んだ
高校のYシャツ
18.11.22
HIROSHIMA
公園を目の前にした気持ちのいい立地にある「GLUE」。スイーツクリエイター、サガワユーイチさんが手がけるそのお店は、自身のブランド「you-ichi」のジャムや焼き菓子などを扱っているが、パッと見ただけでは何のお店なのか判然としない。新しいことが生まれる場所として、人と人をくっつけるGLUE=糊になりたいという場のあり方、そしてスイーツクリエイターであるサガワさんにとってのスイーツを探る。
--目的や機能を限定せずにやりたいという欲の塊
「独立してこのスイーツの仕事を始めて7年、もともと店舗を持たないことにポリシーを持ってやってきてたんですが、たまたま物件との出会いがあり、場所があるってどういうことなのか、スタッフを雇うことでどう社会とつながっていくということを身をもって知るためのある種の実験スペースみたいな場所を作りました。ちょっとでかい箱を作り過ぎちゃったなって思うんですけど(笑)」
お話を伺う2週間前にオープンしたばかりのお店のカウンターに座りながら、そう話を始めてくれた。フットワークとレスポンスのよさ、アイディアをかたちにするスピード感を大事に仕事をしてきたサガワさんにとって、大きな決断だった。
「どこまでこれからやってけるのか、スタッフを守らなくてはいけないという不安はあります。そのための社内外の改革も進めているところです。」
名前のGLUEは英語で糊の意味。いろいろな人が関わってくっつき成長していってほしいという願いがこめられている。
「目的や機能を限定せずにやりたいという欲の塊なんです(笑)。パフォーマンスとかもできたらおもしろいし、いろいろな人の表現の場になったら、今までのケーキ屋とは違う働き方のステップがあるんじゃないかと考えています。コンセプトや物語があるものづくりを、いい意味で遊びながらしていきたい」。
--人と同じとか、誰かと比べられるのが苦手
広島市内で生まれ、姉と妹の女性に挟まれて育ったサガワさんは、小学校5、6年生の頃に家族で行ったレストランで出会ったデザートに衝撃を受け、お菓子作りに興味を抱き始めた。祖母が料理人で飲食店をやっており、設計施工をやっていた父親も一時期蕎麦屋さんをしていたこともあった。それくらい料理は身近な存在でもあった。
「中学ではお菓子を作って友だちに振る舞ったりもしていて、高校にも行かずお菓子の専門学校に行った方がその後の進路として早いんじゃないかと思っていました。親が少し変わった自由なタイプの人たちで、全然勉強しろとか言われないし、自分のやりたいことは自分で決めてやれ。その代わり自分で責任を持てよと言われていました。でも、いざ専門学校の話をしたら、高校くらいは行っておきなさいと言われましたけど(笑)」
とはいえ普通科の高校は考えられなかったサガワさんは、お姉さんが通っていた総合科のある高校に進学。すべてが選択式の授業で、自分でカリキュラムを組んでいく総合科は、自分のやりたいことを自分の責任で調べて掘り下げるという学校の方針もありぴったりだった。
「昔から誰しも何か目標に対してやっていた感じがあった。僕も、人と同じとか、誰かと比べられるのが苦手なタイプで、運動とか勝負事も好きじゃありませんでした。そういうところから、いかにぽんって抜けるかを考えていました」。
--どうしていったらいいか迷っていると手紙を書いた
卒業後、縁あって広島空港のホテルのレストランで働くことになったが、お菓子をどんどんと作れる環境ではなかった。どうにかお菓子作りの道を模索し、ある洋菓子の団体にどうしていったらいいか迷っていると手紙を書いた。後日、洋菓子団体の広島支部から「もし良かったら会いませんか」と電話が来る。その支部の方が広島のケーキ屋を紹介してくれ、サガワさんは、いよいよお菓子の道へと入っていく。
「お菓子の仕事をしたいと思っていたんですが、有名店をリサーチしたりするタイプではなくて、業界のことをまったくわかっていませんでした。働かせてもらうことになったお店のパティシエもスイーツの世界大会に出場したこともあるような人だったんです」。
そこに約5年半在籍。
「ケーキ屋で働きながらも自分にはケーキ屋はできないだろうとずっと思っていました。作ることはとてもおもしろく本当に刺激的な環境にいて、どのように仕事と向き合っていくかは他にもあるのではと日々模索していたのですが、上司とぶつかりいい辞め方ができなかったのも事実です。でもその時にシェフに言われた言葉が今でも僕の大事な道しるべになっています。結局勢いで辞めた形になってしまいましたが、今自分でやるようになって、今の僕があるためにも大事な時間だったことがわかります。」
その後の予定は何も決まっていなかった。お菓子を作りたかったが、ケーキ屋ではないお菓子の空間に行ってみたかった。そんな時、本屋で銀座のデザートレストランという名前を発見する。当時、トシ・ヨロイヅカがデザートレストランを出し始めた頃ある店を見つけ。おもしろそうだと思い、すぐ電話をしてランチを食べに行くことに。
「食べたらすごいがっかりしたんです。なんか違う。シェフっぽい人にこのお店はあなたがやってるんですかと聞いたら、オーナーシェフは他の店にいると。すぐ連絡をして、ちょっと話を聞いてほしいと翌日に会う約束をしました。そしたら、そのシェフがたまたま広島出身の人で、3時間くらいいろんな話をして『東京においでよ』と言っていただき、東京にすぐ引っ越しました(笑)」。
それはいったいどういうことだったのだろうか。
「その方がすごく魅力的だったんです。考え方や視点がすごいおもしろかった。誰かの右腕になって、その人たちの考え方でアウトプットしたいと思っていたんです。」
たまたま本屋でそのシェフの名前を見つけ、その時はじめて料理界では異端児として有名な人であることに気づいたという。
「元々フレンチ出身で、料理人によるデザートのコンセプトレストランという形式からしてすごく興味深かった。スイーツしか知らない人には考えつかないようなアイディアやプレゼンテーションが新鮮でした」。
--震災と自分自身で仕事をするということ
働き始めて1年、東日本大震災が起こる。
「いろいろな状況が一変しましたよね。このまま自分達はどうなるのか。生き方を考え直したというか。自分にできること何なのかを突きつけられた」。
銀座のお店も震災の影響で客足は途絶え、店を続けるのが厳しい状況であろうことは想像ができた。シェフには「おまえは逃げて帰るんか」ときつい一言も言われたが、今いるべきはここじゃないと思えた。
「迷ってしまったら動けなくなってしまうので、判断は早いんです。自分のことを心配してくれる人たちがいる広島にいて、その人たちに何かを還元することが、恩返しになるかもしれないと思ったんです。銀座に出店していたお店を経験して、お店を作ることのリスクも実感できた。お店を追わなくても自分がハブとなってコミュニティができたり、自分のキャラクターでビジネスができるようなスタイルを築ければ、東京でも広島でもどこでも仕事ができると思って、スイーツのケータリングを始めたんです。」
サガワさんは、場所を選ばなくてもできるということを証明すべく、実家近くの道の駅でロールケーキを販売することから始める。ケータリングを続けながら、商品を開発し人気のジャム開発にまで至る。中学校時代からお菓子の道で生きることを決め、様々な経験をしてきたサガワさんにとってお菓子はどんな存在なのだろうか。
「お菓子って生きるだけなら必要ないものだと思ってるんです。だけど、人の考え方や時間、関係性をつくるにはベストなものだとも思っています。コミュニケーションツールとして、表現としてやってみたいことです。極端な言い方をすれば、味や産地にこだわることよりも、コンセプトや考え方を表現して、モノが体を通して、もしくは人から人へ会話しながらつながっていくという時間をデザインしたい。ワクワクする、楽しいという気分をコミュニケーションとして取り込みたい。」
コミュニケーション欲は以前働いたケーキ屋での経験から来ているようだ。
「ケーキ屋で働いた時、作る人と売る人に分かれていたんですね。自分はお客さんの顔を見ることなくひたすらケーキとだけ対話をし続ける日々でした。でもその対話がお客さんに伝わるかどうかは、接客次第で、お客さん自身それを求めていないかもしれない。自分がブランドを始めた時、自分がやりたいことをいいねと言ってくださるお客さんをまずつくらきゃいけないと思ったんです。当たり前のように手に入るわけじゃなく、なかなか買えないとか、いつあるか分からなくても求めてくださるようになれば、そこに新しいコミュニケーションが生まれる。そうすると一方通行じゃない関係になれるんじゃないかと」。
お菓子を作っている自分たちだけが気づいていること、おいしい瞬間、楽しい瞬間、そうした時間や経験を分かち合いたい。食べるということの前後にあるもののストーリーを一緒につくっていきたい。そんな思いが溢れていた。
「マカロンが焼けて、冷めてく瞬間に音が鳴ることや、できたてのアイスクリームがすごくふわふわで、口の中でふわっと溶けてく瞬間のこと。どちらもお客さんの手元に行くときにはもうなくなっている良さであり個性。なんかそのストーリーをどう伝えるのかに僕はわくわくしています」。
--相互の信頼と決断することの大切さ
ループケアする服は、高校時代の制服で着ていたYシャツ。
「総合学科が増えていた時期で全国的にもモデル校みたいな扱いをされていた学校でした。高校時代に、自分の考えをプレゼンするということを覚えました。人に伝える時の言い回しや資料作り、原稿なしでしゃべること。個としていいパフォーマンスをすることの意味や影響力を体感しました。3年生の時、文化祭の実行委員長をしたんです。何周年みたいな特別な年で『予算を300万付けてあげるから好きなことしていい』からプレゼンしなさいと。」
高校生に300万円とは、想像もできない大金。サガワさんは委員長として全体を仕切って、各クラスごとに何をやっていくのかを見ていきながら、組織として大人数が動くことの大変さとすごさを身をもって知っていく。
「いろいろなトラブルもあって大変でした。でも、すごく自分のクラスのメンバーに支えられて、『サガワ君にしかできない事をやってくれていいよ』『だからクラスのことは任せて、全体のことやっていいから』みたいに言ってくれるクラスだったんですよ。その時に知ったのは、上にいる人間は、選択をして決定をする立場なんだということでした。まさに今もそう。スタッフが『ユーイチ君はこのお店にいなくても大丈夫だから、外でやりたいことやってきていいんだよ』って言ってくれる。適材適所、働く人たちの能力が一番いい状態で発揮されるようなチームが組めたらと思って日々取り組んでいます。全体でやるべきことに対して個性をうまく評価しながら実現していくということを、学んだ学校でした」。
Yシャツはカードケースになる。「ユーイチ君はこのお店にいなくていいから、外でやることやってきていいんだよ」と言ってもらえる環境を作ったのは間違いなくサガワさん自身。外に出て人に会い、名刺やショップカードをカードケースから出す時、いまの自分のコミュニケーションやプレゼンテーションの基礎をつくってくれた高校時代を思い出すかもしれない。常に原点とともにいて、身を引き締めること。これからの活躍が楽しみになるループケアになった。
--サガワユーイチさんのカードケースが完成しました
サガワユーイチさんの伝えることを学んだ高校のYシャツをループケアし、カードケースに仕立て直しました。
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
下田卓夫さんと
お母さんが作った
浴衣
一級建築士事務所ラーバン代表取締役
18.09.08
今津正彦さんと
苦しかった時代の
奥さんのワンピース
株式会社アイ・エム・シー ユナイテッド 代表取締役
18.06.28
佐藤恵子さんと
あの頃一目惚れした
スカート
整理収納アドバイザー/親・子の片付けインストラクター
18.07.08
山中洋さんと
静かで控えめな祖母の
着物
株式会社マル二木工 常務取締役 営業本部本部長
18.07.20
山本美直さんと
子を通して繋がる母の
ツーピース
ブランド「ヒトツトテ。」作家
18.06.08
戸川幸一郎さんと
描いて拭いて汚した
仕事着のパンツ
絵画造形家
18.12.08
竹中庸子さんと
三世代で受け継いだ
被布
特定非営利活動法人もちもちの木理事長
18.06.18
竹中真弓さんと
洋裁師の母が残した
生地
キッシュ グラン・ココ 店主
18.08.08
藤島孝臣さんと
沖縄に溶け込むための
泡盛Tシャツ
ガラス工芸家
18.09.28
黒木美佳さんと
seiji kuroki parisの
シャツ
せとうちホールディングス 繊維カンパニー 企画・パターンナー
18.10.28
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泡盛Tシャツ
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シャツ
せとうちホールディングス 繊維カンパニー 企画・パターンナー
18.10.28
商品毎に、1回分の無料修繕サービス(リペア券)がご利用いただけます。
完成品といっしょにリペア券をお届けいたします。