友村晋さん
と
母親が作ってくれた
顔入りリコーダー袋
19.04.08
HIROSHIMA
友村晋さんは、東京大学の大学院で子どもの頃から憧れていた宇宙の研究していた経歴を持っている。現在はウェブサイトのコンサル業をしながら、これからのAI時代をいかに生きるかということについて、講師として働く大人から子どもにまで語ることが増えている。宇宙からECまで、そして友村さんを育てた母親とのこと。
--バカにされ、恥ずかしいけどうれしかった
友村さんは、東京で過ごした7年の間に板橋から代々木、馬込へと3回引越し。故郷の広島に戻ってきてからも、結婚前に1回、結婚後に3回の引越しをしている。計7回の引越しを行ったけれど、ずっと隠して奥さんにも知られずに持ち続けているものがある。それが今回アルバムにループケアするものだ。
「小学生の時に使っていたリコーダーの袋なんですが、母親が作ってくれたものです。頼んだわけではなく勝手に作ってくれていたんですが、同級生に無茶苦茶ばかにされたのを覚えてます。他のみんなは買うか、作ってもらったとしても柄のもの。自分の似顔絵が入っているやつなんて誰もいませんでした。でも、恥ずかしいことは恥ずかしかったんですけど、恥ずかしさと同じくらいうれしさも感じていたんです。この顔がなかったら今まで保管せずに多分捨てています。よく見たら顔のクオリティーがかなり低いんですよ。めっちゃ適当。でもそれがまた苦手な母ちゃんが作ってくれたのかなあと思うと愛おしさもあります、っていうマザコン発言になっちゃうんですけど、ともかくうれしかったですね」
--僕は母親の味方
「僕、お母ちゃん子なんですよ。父ちゃんは団塊世代の九州男児で超亭主関白だった。父方のばあちゃんは、父ちゃんが結婚当初、ちょっと台所に立って手伝っていたら『おまえ男のくせに台所に立つな』って怒ったりするような家。かなり古臭い。父ちゃんは、仕事やゴルフで忙しくてほとんど家にいませんでした。父ちゃんには怒られた記憶しかないですね。成績も見ないし、僕が勉強できたかどうかも知らないと思う。ほとんど母ちゃんが育ててくれたような感じです」
友村さんのお母さんは、生き物が好きだった友村さんに付き合い、ドブのザリガニ釣りに一緒に来てくれるような人だった。お兄さんと妹さんがいたが汚くなるからと来たがらず、友だちも嫌がるような遊びだったそうだ。
「とはいえ、母も勉強しろとは全く言いませんでした。よくわからない団体に入っていて、朝4時半頃に小学生だった僕を起こして、公園の公衆トイレを掃除しに行くぞと連れ出していました。陰徳という徳を積むと言われる行為なんですが、人が見ていないところで徳を積むことが大事なことだったようで早朝に…。そんなんばっかりやらされていました」
早朝のため徐々に兄弟は脱落していく。でも友村さんはお母さんがかわいそうだと付き合ってあげていた。
「自分は徳を積んでるとかは考えてもいなくて、面倒くさいしか思っていませんでした。母ちゃんのためです。小4から中学校ぐらいまでやってました。思春期になって、さすがにもう勘弁してくれと伝えて辞めました」
お母さんがかわいそうとは言え、なぜやるのかよくわからないトイレ掃除を続けるというのは簡単ではない。そう思って聞いてみると、お母さんが置かれていた家庭内での境遇への慮りがそこにあった。
「うちの家庭は少し構成が変わっていて、父には生みの母と育ての母というふたりの母親がいるんです。それに母ちゃんの母親もいれると僕には計三人のおばあちゃんがいました。その3人の介護や世話を母がしていたんです。トイレにいけないばあちゃんのうんちをゴム手袋をした手で取るということを毎日やってあげていました。ばあちゃんは、息子の嫁なんだから当然のような感じ。僕ら子ども3人も、ばあちゃんの顔を拭く係や家を掃除する係、ポータブルトイレを掃除する係とローテーションが決まっていました。母ちゃんの大変なところを見ているから、自然と母ちゃんに対してみんなやさしくなるんですよ。だから兄弟三人とも反抗期がありませんでした。せめて僕らは苦労させないようにいい子でいてあげたい、勉強も頑張ろうとしていた気がします。多かれ少なかれどこの家庭もそうだと思うんですけど、親の背中を見て育った感じですね」
--宇宙の果てが知りたかったのに
生き物好きで好奇心、探究心のあった友村さんは、勉強がわりと好きだったという。お母さんがザリガニ釣りに付き合ってくれていたからこそ、友村さんは自分が好きなものを好きなままいることができたのかもしれない。その後、広島大学理学部地球惑星システム学科に入学する。
「中学生で宇宙に目覚めたんです。NHKで宇宙番組を見ていて、宇宙の終わりはまだわかっていないと知って驚きました。僕、もう全ての理がわかっているものだと思っていたんです。宇宙にはまだまだわかっていないことがたくさんあるんだと衝撃を受け、そこから学校の休憩時間も図書室に行って、ひとりでずっと宇宙の本を読み漁りました」
ところが、地球惑星システム学科は名前こそ宇宙感漂うが、実質は地学科だった。地学科という名前の人気がなく生徒不足もあって名称を変更した過去があった。実際に惑星形成などもやるが、地震や火山もやれば恐竜などの古生物もやる。さらには広島大学が宇宙よりも地学分野に強い大学だった。
「結局、僕の卒論のテーマは地滑りなんです。広島の山は粘土層が多いんですね。だから地滑りが起きやすい。いつでも地滑りが起きる準備ができている状態なんです」
希望していた宇宙の勉強ができないでいた大学二年生の頃、やりたいことと眼の前のことのギャップから逃げるように遊び回っていた。
「高校時代は大学受験でずっと勉強ばかりしてたいたので、高校時代はイケてないグループにいたわけです。で、大学に入ったら遊べるぞ!といきんで遊んでいました。宇宙の勉強もできないしって腐っていましたね」
そんな遊び倒していた時期、高校時代に通っていた塾の先生から声をかけられる。この先生が変わっていて、これからの友村さんの人生に大きく関わっていく。
「呉駅前にあるウルトラセンターという変わった名前の塾で、そこの英語の先生をすごく尊敬していて、卒業後もよく遊びに行ってたんですよ。その先生は毎年おもしろそうな卒業生を1人捕まえて、一緒に海外に行くということをやっていました。大学2年生の時、今年は僕を連れていってくださいよと言ってみたら、連れて行ってくれて、インドネシアに行くことに。初めての海外に衝撃を受けました。インドネシアは当時まだ新興国で、裸の子どもたちが『これ買って!』と拙い日本語で物を売りくるわけです。それを見て、自分のことを考えたら毎日遊んでばっかりで何をやってるんだろと。そこから火が付いて、帰国後もう一度宇宙を目指そうと思って、東大の大学院に向けて勉強をはじめました。あれが人生の転機でした。自分の子どもたちにも、平和な日本から一度出て、いかに自分たちが恵まれてるかを知ってほしいですね」
--東大に入ったのに何かが違う
勉強の甲斐あって東京大学の大学院に進学。待望の宇宙の研究を始めるのだが、どうもしっくりこない。太陽系の起源を研究していた友村さんは、毎日極薄に削った隕石を電子顕微鏡でひたすら見てデータを取り、グラフをつくって、何億年前の成分だと特定していったりする作業に、疲れてしまった。
「つまらなくなってしまって、宇宙飛行士になるには30個以上の学問を修めなくちゃいけない。英語はもちろん2カ国語以上しゃべれなくちゃいけない。音楽や美術もあった。これは無理だと思いました。宇宙の仕事に就くから宇宙旅行に夢が移っていた頃で、それなら民間のロケットでいけるらしいとその頃話題が出始めていました。宇宙に行くには、宇宙飛行士になる以外にお金稼いで行くこともできる。それで勉強はもういいやと思ったんです。勉強大好きでむちゃくちゃ頭のいい連中が周りにゴロゴロおって、この人らほど俺は勉強が好きじゃないと」
東大の院まで進む猛者たちは、日本の中でも有数の頭脳の持ち主たち。友村さんもそのひとりではあったが、比較対象がみなすごかったのだろう。地道な作業が自分の求めた宇宙研究とは違ったこともあった。
「隕石を分析してわかることって宇宙の本当に微々たるもの。僕は宇宙の果てが知りたいとか、ブラックホールに飲み込まれたら別の世界に行くんじゃないかとか、『マトリックス』みたいな、この世界自体が仮想世界なんじゃないかとか、そういうことが知りたかったんだとわかりました」
科学というよりも哲学のようなことを友村さんは求めていたのかもしれない。いづれによせ、なかなか思うように研究に没頭することができないまま大学生活は終りを迎えた。
--月商20万円から1000万円へ
「卒業後は化粧品のネット通販の会社に3年間就職していました。実はその会社の社長が、先ほど話しが出た塾の先生なんです。塾を辞めて山口県の岩国市で起業し、東京にいる僕に『東京に残って、おまえのおるとこを自宅兼事務所にして、ちょっと1人でやってみて』と言われたんです。『給料あげるから、仕事を自分でつくってやって』と」
友村さんは大学院の時、現役東大生が経営する家庭教師派遣事業を起業したことがあった。友だち二人とホームページを作ってやってみたのだが、まったくうまくいかなかったという。経験といえばその程度。本格的に営業できるほどの知恵と経験があるわけではない。
「でも、東大の勉強が生きたところもあって、隕石の分析は生データを統計学で処理するわけです。それって、ホームページのアクセスを始め膨大な量のデータから、お金になる情報を見つけて処理していくことなんですよね。要は、データからイレギュラーなものを見つけるのが仕事。イレギュラーなものが宝になる。そこが似ていたので実は結構うまくいって、月商20万弱から退社した3年後には月商1000万までいきました」
「だから、僕に残された選択肢は、独立しか残されてなかったんです。先生としっかり話し合って、後継者を見つけて仕事を教えてから辞めますと。それで1年かけて育てて辞めました。辞めた後も3年ぐらい東京に残って、eBayで仕入れたものをヤフオクで売ったりして、生活をしていました。その時期は出社しなくていい、いつ起きてもいい生活でめちゃくちゃ楽しかった」
時間を持て余した友村さんは、ママチャリにテントと寝袋を積んで12泊13日で呉まで自力で帰ったりもしたそうだ。「ちょっと遅れてきた青春」を謳歌していた。30歳で自転車旅をしている自分に不安を感じたこともなく、むしろ朝の通勤時間にすれ違うサラリーマンを横目に自由な自分に酔っていた感覚さえあったらしい。
「自信になってたのは、やっぱり売り上げ1000万を実現していたからじゃないかな。いつか売りたいものが出てきたら売る根拠のない自信があったんです」
--撮影キットに始まりAI時代を語るまで
「ネットで転売していた時、仕入れた物を撮影しますよね。撮影機材を買ったんですけどあまりうまくできなかったんです。それで、ホームセンターで素材を買って自作してたら、そこそこいいのが撮れた。撮影のセミナーに行って簡単なノウハウを学び、動かないものなら撮れるのがわかったので、あとは得意のSEO対策をして撮影キットで検索したら上位に来るようにホームページを作ったら売れたんです。フィードバックも良くて、これはと思って自分でビジネスを立ち上げました」
そうこうしているうちに、友だちがたくさんいる東京にどこか魅力を感じなくなっていた自分がいたと友村さん。一方で、かつて田舎で嫌だなと思っていた呉線や瀬戸内の海、お好み焼きに改めて惹かれていることに気がつき、帰ろうと決意。広島でEC事業を始めることになる。
「撮影キットを売り始めて、これからどんどんやっていこうというタイミングで結婚もしました。いまは撮影キットの売上は全体の中では小さくなっています。今は企業向けのコンサルティングとECサイトの運営代行、あとは妻と一緒に子ども向けの人間塾みたいなことを偉そうにやっています。人間塾と言うと怪しまれて人が集まらないので、基本は英会話教室です。妻が英語を話せるので50分のうち40分は英語の授業をして、残りの10分で、僕が、なぜ夜は暗いと思う?とか、なんで夏は暑いと思う?とか、なんで遅刻ってしちゃいけない?とか いじめなはぜしてはいけない?とか。そういう疑問やテーマを投げて、子どもたち一人ずつ話してもらったりしています。僕なりに、AI社会がどうなるかという持論があって、そのAI時代に活躍できる人材を呉からたくさん育てたい。呉からビル・ゲイツを排出しようとよく妻と話しています。収益化はまだまだ先ですが、いま一番熱を入れています」
人間塾という響きは確かに多少の怪しさはあるかもしれない。何をやっているのかを聞いてみると、AI時代に持つべきWHYやHOWを考える頭を養うというとてもまっとうなことなのだ。
--ミジンコみたいな人間
友村さんの会社は株式会社ミジンコという。なぜミジンコなのだろうか。
「仕事で悩んでいた時、横にいた妹に話してみたら、『晋ちゃん、ほんま器ちっちゃいね。ミジンコみたいな人間じゃね。そんな程度のことで悩みよるん』ってぼろかすに言われたんです。それを言われた時、何かすごくうれしかったんです。うれしかったというか、ああこれは悩むほどのことじゃない、ミジンコ程度なことなんだって。ミジンコって、1カ月ぐらい田んぼの中をバタバタやって死んじゃうわけですけど、宇宙から見たら人間もミジンコと同じ。だから、僕の人生なんて、あっという間の花火みたいなもんだから好きなようにやりなよっていう自戒の念を込めて、株式会社ミジンコにしました」
今でも仕事でいいことがあると、妹さんとお母さんに話すのだそうだ。「男ってマザコンですよね、基本」。基本そうかはわからないけれど、仲がいいことは何より素敵なことだ。リコーダー袋が生まれ変わったら、いの一番にお母さんのもとに走っていってほしい。
--友村晋さんのアルバムが完成しました
友村晋さんのお母様が作ってくれた顔入りリコーダー袋をループケアし、アルバムに仕立て直しました。
--生まれ変わったアルバムを手にした友村さんからうれしい感想が届きました
かーちゃん、めちゃくちゃ感動してくれて。
僕の赤ちゃんのころの写真と孫の写真を入れて見せてあげたら、すごく喜んでいました。
じっとページも読み込んでいました。
本人は、これ私がつくったん?って記憶にないようで。照れ笑いしてました。
そのやりとりを嫁が横目で、コイツきもいって言わんばかりの顔でじっと見てました。
本当にありがとうございました!なんでも捨てる主義の僕ですが、これだけは死ぬまで大切にします。
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
サガワユーイチさんと
伝えることを学んだ
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スイーツクリエーター
18.11.22
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お母さんが作った
浴衣
一級建築士事務所ラーバン代表取締役
18.09.08
垣根千晶さんと
おばあちゃんの
着物
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生地
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