森島彰規さん
と
スケーターと過ごした
二枚のTシャツ
22.02.28
HIROSHIMA
1987年広島の袋町にオープンしたアメリカの雑貨を扱う「雑貨株式会社(GOODS COMPANY)」。創業から30年以上が経ち、現在では雑貨屋以外にも帽子屋、アパレルショップやスイーツ&カフェなども手掛けている。創業者の弟で取締役の森島彰規さんは、スニーカーショップ&スケーターショップ「WOLRDTRIBE」を立ち上げた、広島のスケーターカルチャーにとって欠かせない存在。90年前後、ストリートカルチャーが急速に伸びていく時代を歩いてきた森島さんが見てきたものとは。
--13歳上の兄が教えてくれたアメリカンカルチャー
雑貨株式会社をオープンさせたのは、今回お話を伺った森島彰規さんのお兄さんで、彰規さんが先代と呼ぶ森島淳さん。13歳の年の差兄弟であり、小さい頃はまったく接点がなかったそうだ。
「もはやネタにしてるんですけど、13歳上の兄と、さらに2歳上にもうひとり兄がいるんですが、小学校1年までずっと一人っ子だと思ってたんです。小学校に入って、一人ずつ家族構成を言わされた時、『お父さんとお母さんの3人家族です』と言ったら、先生が名簿見ながら、『あれ、森島君、お兄さんが2人いない?』って。家に帰っておふくろに聞くと、いや、おるじゃんって。兄たちは大学で県外に行ってたりしていて、家にまったくいなかったんですよ。だから、たまに来るあれとあれがお兄さんじゃけえみたいになって。先代は、会社に入った時からもうオーナーと呼んでいて、兄貴と言ったことはないですね」
兄弟というよりも、お正月にスケートボードを持ちながら来る親戚のお兄ちゃんのようであり、働き始めてからは社長とスタッフの関係になった。彰規さんは高校1年生からの一時期、お兄さんと一緒に暮らしていた。お母さんが亡くなって、田舎の祖父母の家に引っ越すことになり、大阪にいたお兄さんも戻ってくることになったのだ。
「祖父母宅が田舎だったので、急に電車通学になり、先代に車に乗せてもらって駅まで行っていました。その車中も話すようになって、アメリカのカルチャーを教えてもらったりしました。映画『トップガン』がやっていたので、MA-1とかフライトジャケットを買うなら、アヴィレックスかアルファにしろとか」。
87年、お兄さんが雑貨株式会社を立ち上げたのは、広島ではアメリカンカルチャーがテレビや雑誌で紹介されても実物が見れなかったからだった。実物を手にとって体感してもらうのが雑貨屋だと考えていた。
「その考え方はずっと聞かされていました。とにかくスケートボードも実際に滑ってるところをみんなに見せたいと思っていたし、服とかを雑誌で見て、電話して通販で買うよりも実際に見てもらおうと、流行りはじめのブランドもどんどん東京から持ってきていました」
--スニーカーからスケボーへ
グッズカンパニーの1号店「雑貨株式会社」はアメリカン雑貨のお店、2号店としてオープンしたのが「WOLRDTRIBE」だった。並行輸入のスニーカーを扱うお店としてはじまった。
「88年当時、当時はまだナイキジャパンでジョーダンやバッシュの取扱いがほぼ無い頃で、日本で買えるナイキは白ベースのベーシックなものしかない時代でした。アメリカの西海岸で買い付けて、最初は雑貨株式会社の方で2万円ぐらいで出して、そんなに売れないだろうと思っていたら、すぐ売れるやんとなって。すぐ横に空いていた2坪半ぐらいのちっちゃいスペースを借りて始めたのがWORLDTRIBEです。ロゴのDに描かれている線は2坪半を表しています」
お客さんが入ってくると、目の前には森島さんがいて、周りの壁には靴が並んでという状態。売れてしまって商品が足りなくなり、神戸の高架下でスニーカーショップをやっていた人に、買い取るから多めに仕入れてきてくれとお願いして仕入れたりもしたという。それでも並べると、何の宣伝もしないのに、オープン当初にお客さんからの口コミなのかまたすぐ売れていった。
「とはいえ並行輸入でなくなったら終わり。せっかく買いに来てくれても、お店に商品がない状態が続いて。もうちょっとコンスタントに毎日できる商売をやらないとと、よく買いに来てくれていたスケーターから、近くにスケートボードのお店がないと聞いていたので、どんなもんなんやろうと東京・大阪に行って、当時のスケートショップに仕入れとかについてアポ無しで聞いて回りました。広島から出てきた得体の知れない若者に、どうやってお店を開いたらいいんかとか聞かれて、よく教えてくれたなと今になって思いますね」
WORLDTRIBEを始めて半年経った頃からスケートボードを仕入れるようになる。WORLDTRIBEという名前もスケートボードのお店になってから、着実に広まっていった。並行輸入という方法でスニーカーを扱うことも彰規さんは、ピンときていなかったこともあっていいタイミングでの転換だった。
「自分としては、スニーカーを並行輸入で持ってきてることに、どこか後ろめたさのようなものがあった。90年にはジョーダン5も日本で正規発売されるようになりました。アメリカではジョーダン5を巡って殺人事件が起きたというニュースもあった頃ですね。ジャパンが取り扱うなら、並行輸入はもういいだろうと、スケートボードにどんどん業態変更していきました」
「WORLDTRIBEで扱っていたスニーカーは、ほぼバッシュでした。というのも、当時のアメリカのスケボーシーンは、AIRWALKのような専用の靴が出始めた頃で、お金のないスケーターたちは、それよりも売れ残って安くなっていた赤や青のバッシュを履いていたんです。当時の日本ではNIKEは白ベースしか売ってなかったから、日本のスケーターたちはアメリカでは流行っているカラフルなバッシュが履きたいとなっていました」
アメリカのスケーターは、安く手に入るから使っていたものが、日本では憧れの靴になってわざわざ欲しいものに。おもしろいねじれが起きていた。
--広島スケボーシーンの成長
当時の広島のスケボーシーンはどんなものだったのだろうか。
「始めた当時は東京・大阪の情報をとにかく見ていました。東京・大阪で配られているフリーペーパーやマガジンを東京・大阪のスケートショップから送ってもらって、みんなで見ていましたね。大きな機材で映像を撮って東京に送ってアピールしたりもしていました。お礼に東京の子たちも送ってくれたりして。トリックをがんばる東京のスケートに対して、広島の子たちはスピードと飛ぶことが得意という感じで違うおもしろさがありました。その辺が東京のスケーターたちにもウケて、全国大会に広島の子たちを車で連れて行って参加したりもしていました。」
WORLDTRIBEは、広島のスケートボード・カルチャーのハブ的な役割を果たすようになってきていた。WORLDTRIBE以前にやっていたスケートボードショップが、少し前にクローズしていたことも影響していたという。
「行き場のなくなったスケーターたちが来たんだと思います。他にも当時、EDISONというハードコアを扱うレコード屋さんで、レコード関連ということでスケボーのパーツも少し扱っていたんですけど、物足りないとなってうちが専門店としてやろうとなっていきましたね」
いろいろなタイミングが重なって状況が集約されてきた。
「余談ですが、EDISONで当時店長だったガイさんはMISERYというハードコアのレコード屋さんをやっています。ハードコア界では全国的に有名な方で、以前愚鈍というバンドをやっていました」
独特な広島スケートシーンは、スケーター同士の交流や情報交換だけでなく、雑誌などによっても知られるようになっていたという。
「東京や大阪のスケーターたちも広島がおもしろいみたいとなって来てくれていました。当時はまだ不定期刊行だった雑誌「Ollie」の人とかも来ていましたね。雑誌で何かの特集が組まれるときに出てくる地方って大阪や神戸、福岡だと思うんですけど、スケートボードだけは大体広島でしたね」
--スケボーは中高生に教えてもらった
彰規さん自身はお店を始めるまでスケボーはほぼやったことがなかった。お兄さんがお正月に帰ってきた時に持ってきていた、当時高価だったグラスファイバーのデッキをこっそり乗って怒られていたそうだ。
「本格的にやったのは二十歳から。飛んだり、デッキを回りしたりするトリック自体もまだまだ出始めの時でもあって、どうやったらできるのか信じられなかった。やるぞ!と思ってどっぷり入っていきました」。
お店で販売しながら、お客さんと一緒に練習して、お店もお客さんも一緒に育っていった。とはいえ、時間もあり、怖いもの知らずで吸収力の高い中高生はあっという間にうまくなっていく。
「中学生の子のほうが僕よりもうまかったですから。ずっと子どもたちに教えてもらってといった感じです。練習場所には、中学生の子たちもいれば、僕より上の30代の人たちもいました。中、高校生の子はやっぱりうまい。良くも悪くもスケーターの世界は、上下関係があまりなくて、大事なのはうまいかどうか。だから、その若い子たちは大人になって、目上の人に平気でため口言っちゃったりしていましたね」。
別け隔てなくフレンドリーであることはスポーツコミュニティとして風通しはいいが、弊害も生まれていた。わかりやすくストリートスポーツのあり方を示しているようにも聞こえた。
--チームWORLDTRIBEとして
今回クッションバッグにループケアするのは、「WORLDTRIBE」でスケボーの大会を回っていた時のスタッフTシャツとTAR(TOKYO AIR RUNNERS)のTシャツだ。
「5、6人を車に乗せて県外の大会を転々としていました。僕が乗せて回っていた時のメンバーでも4人、5人はプロになりました。年間で試合が組まれていてポイントを稼いでいく。年間上位10位まで入れば、そのリストがスケートボード協会発信で広がって、アパレルやグッズのブランドに届きます。めぼしい子がいたら、うちの服を着てくれませんか?とか、うちの板に乗ってくれる?とか話しが来ていましたね。ただ、当時は、まだ日本オリジナルのブランドというより、海外ブランドを日本に仕入れている会社からのオファーでしたけどね。今でこそ、世界中のブランドと直接スポンサー契約ですけどね」
オリンピック種目にまでなった現在では、スケーターとのスポンサー契約はお金も含め桁違いに状況は変わっている。世界レベルの選手は、アスリートやファッションアイコンとして世界的に認知される。
「その当時、プロの大会で優勝しても賞金は10万円ぐらいでしたね」
彰規さん自身はスケーターとしてどうだったのだろうか。
「やり出してすぐ足首を何カ所か骨折してしまったりして、仕事に支障が出るなと。店に立ってる時もギブスを巻いていたので」
スニーカーを売る店にいるギブスの店員さん。
「年齢的にも中高生よりは上だったので、僕はその子たちにチャンスをあげる側、迷ってる子たちに挑戦させてあげる存在でいたいと思っていました。裏方に徹してという感じですかね」
--TOKYO AIR RUNNERSという存在
WORLDTRIBEともう一枚ある「TAR 20th」と描かれたTシャツは、TOKYO AIR RUNNERSという裏原ファッション黎明期から活動してきたブランドの20周年記念のもの。
「スケボーつながりで、東京の人たちとの輪が広がっていって、カルチャーを作っている側の人たちとも顔見知りになっていきました。その中の1人に、インディーブランドの先駆けだったTOKYO AIR RUNNERSの関さんがいました。自分で服を作って、連絡をくれた人に直接手売りで売るということをやっていた人。そんなことをしてご飯を食べていけている人なんて他にいませんでした。関さんとは、関さんがDJもやっていたから、ヒップホップやレゲエのアーティストたちを紹介してもらって、広島でイベントをオーガナイズしたりして、お付き合いさせてもらっていたんです。90年代後半頃から新潟県小千谷市が拠点で、今でこそネットをやっていますけど、今でもお店は週末に何日かだけ開いていて、シャッター通りの商店街にぽつんとある不思議でおもしろいブランドです。当時WORLDTRIBEから派生してメンズアパレルのお店もやっていて、そこでTARを扱っていたので20周年記念のTシャツとして仕入れた商品でした」
WOLRDTRIBEは約20年間の営業を経て、2009年に閉店した。デッキを買うお店も少なかった時代から、スケボーはオリンピック種目にまでなった。
「当時一緒に滑っていた若い子や裏方だった人たちが、ちょうどコーチやスタッフとして選手に付いたりしている。解説者で出て喋ってたりするのを見ていると、競技以外もおもしろく見れますね」
30年以上の時を経て、ここにまでつながった。
--森島彰規さんのクッションバッグが完成しました
森島彰規さんのスケーターと過ごした二枚のTシャツをループケアし、クッションバッグに仕立て直しました。
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
森島彰規
株式会社グッズカンパニー取締役
1969年広島生まれ
大学中退後、実の兄が創業した会社(現:株式会社グッズカンパニー)に入社。
アメリカンカルチャーへの興味関心をビジネスに展開し、日本におけるスケートボードの一時代に深く関わっていく。
現在は、広島中心地を拠点に雑貨屋以外にも帽子屋、アパレルショップやスイーツ&カフェなども手掛け地域の活性化にも貢献している。
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
原田健次さんと
店を始めた時に作った
エプロン
地粉うどん店 わだち草 店主
20.05.28
峠一平さんと
履けなくなった
パンツ
美容師
21.03.18
峠優さんと
長女のための
手作りワンピース
美容師
21.04.28
柚木藍子さんと
長女が1歳から着ていた
大きめTシャツ
Photo Studio Marque代表
21.11.18
柳谷環さんと
母がつくってくれた
スカート
千差株式会社代表取締役
22.01.08
森川公美さんと
神主だったお父さんの
装束
広島交響楽団 フルート奏者
21.02.08
森脇靖さんと
インドでもらった
ジャケット
陶工
21.06.18
櫻木直美さんと
長女の入園時に作った
レッスンバッグ
株式会社マアル 代表取締役
20.08.28
稲垣友美さんと
特別にオーダーした
ワンピース
SSca:CNC工作機械プログラマー
20.07.08
原田健次さんと
店を始めた時に作った
エプロン
地粉うどん店 わだち草 店主
20.05.28
峠一平さんと
履けなくなった
パンツ
美容師
21.03.18
峠優さんと
長女のための
手作りワンピース
美容師
21.04.28
柚木藍子さんと
長女が1歳から着ていた
大きめTシャツ
Photo Studio Marque代表
21.11.18
柳谷環さんと
母がつくってくれた
スカート
千差株式会社代表取締役
22.01.08
森川公美さんと
神主だったお父さんの
装束
広島交響楽団 フルート奏者
21.02.08
森脇靖さんと
インドでもらった
ジャケット
陶工
21.06.18
櫻木直美さんと
長女の入園時に作った
レッスンバッグ
株式会社マアル 代表取締役
20.08.28
稲垣友美さんと
特別にオーダーした
ワンピース
SSca:CNC工作機械プログラマー
20.07.08
商品毎に、1回分の無料修繕サービス(リペア券)がご利用いただけます。
完成品といっしょにリペア券をお届けいたします。