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稲垣友美さん

特別にオーダーした
ワンピース

20.07.08
HIROSHIMA

SSca(ススカ)はコンピューターで工作機械を操作するCNC(computerized numerical control)のSHOPBOTを使ったものづくりをしている。テントやベンチ、コートハンガーから組み立て式のパビリオンまで規模は様々だ。セレクトショップオーナーからCNC工作機械プログラマーへ、稲垣友美さんはいかにして転身したのか。

--CADとCNCが稲垣家にやってきた

ふたりはお揃いの作業用コートを着ていた。

「先に夫がCAD(3次元の設計ソフト)を触り始めたのは、4年くらい前。夫は元々は縫製や刺繍業をしていて、その中で特殊な洋服もつくっていたんです。新体操やコンテンポラリーダンスの衣装とかもやっていました」

ある時、着ぐるみの発注依頼が来たことをきっかけに、旦那さん聡さんはCADを覚えざるを得ず学び始めた。それがいつの間にか、そちらがメインになり、大学から声をかけてもらって教え始めるくらいにまでなっていった。

「教えることにもなって、CADが使えるとはいえ、実際にものに落とし込んで仕上がりを見ないままに教えるのもどうなんだと思い、いろいろな機械を揃え始め、XYZの3軸で削り出すSHOPBOTを購入して使い始めたんです」

--銀行で秘書をやる

聡さんは刺繍などの仕事をしていたが、友美さんは自分でセレクトショップを経営していた。その前は、銀行員だったという。

「入行後、4か月ほど営業店にいましたが、短大の秘書科を出ていたこともあって、そこからは役員秘書をずっとしていました。銀行には約5年いました。当時、秘書は誰かが辞めない限り入れ替わりのない部署で、過去寿退社以外辞めることがなかったらしいんです。だから私が夢を叶えるために辞めますという話が前代未聞なことで、室長もどう役員に伝えたらいいかわからなくて、困っていました」

そんな空気のなか、稲垣さんも開業すると話すのが恥ずかしくなり、学校に通うために辞めるということにした。結局担当の役員には1週間前、各部の部長には前日に辞めることを伝えたそう。

「でも恵まれていて、その日に言ったのにプレゼントをくださったり、今になって思えばすごく恵まれていました。今でも全部の部署の人の内線番号は覚えてます(笑)」

恵まれていたとはいえ、やりたいことがありながら秘書という仕事はどうだったのか聞くと。

「私は結局向いていなかったと思ってて。友だちにも向いてると言われていたけど、うーん、そうじゃないよと思っていましたね。でも夫だけが唯一向いてないと言ってました。心が向いてないから向いてないって。完璧主義だと人とお話してる中で言われることがあるんですが、自分ではそうは思っていないというか、要は完璧主義って完璧に出来るわけではなくて、完璧にしたいと思うけどそれが出来なくて落ち込むという人のことを、完璧主義と言っているんだと思うんです。私はそれなんです」

理想は頭にあるが現実の自分が追いつかないということはよくあることではある。

「だから、ちゃんとしよう、しなきゃというのがあったんでしょうね」

--27歳、セレクトショップを始める

セレクトショップ開業のために銀行を辞めたのは27歳の時。

「会社員の両親の下で育って、自営業を始めるなんてという感じがありました。でもやりたくて、とりあえずお金を貯めてみよう、貯まったら考えようと家計簿を付けて、27歳の時に目標金額になった」

お金は貯まったとはいえ、そんなにすぐ辞められるものでもない。しかし、稲垣さんのお店への思いは日毎高まり、興奮でちゃんと寝ることができない日が続いた。

「お店を開いたらどのブランドを入れたいとか、店のイメージをこうしたいとか夢でもずっと考えていて、良いアイデアが思いついたら忘れるのが怖くてパッと起きて、夢に見たことを書き留めていたんです。それが何日も続いて、このまま睡眠不足が続いたら病気になっちゃう。その頃、先輩が結婚されたんです。で、策略的な私は、先輩に子供ができて異動になったら抜けられない気がして、その先輩にご了解を取って、当時夜間に通っていたファッションの専門学校に本格的に通いたいから辞めていいですか?と話して、『やりたい道に行きんちゃい』と後押ししてくれて辞めることができたんです」

半年間の開業準備期間を設けて、9月1日にオープンすると決めた稲垣さん。もしオープンが1日でも遅れるようだったら、もう店を開けるのはやめようと考えていたという。とても極端だ。

「すごい極端なんです。白か黒かはっきりし過ぎてると友だちにも言われます。銀行からも融資をもらわず、自分の貯金だけで開けたので最悪マイナスになることはないから、家を失っても草にマヨネーズ付けて食べていこうとさえ思っていました」

腹を括った稲垣さんの強い覚悟があった。

--ほぼ始発から終電まで、バイト三昧の日々

「実は高校卒業時は、ブライダルのメイクアップアーティストになるために、大阪の専門学校に進学したかったのに親が大反対で。母は不安定な職業で心配だからと大反対。母から聞いた父は親元を離れることが寂しかったらしくある日、『お父さん、この1週間仕事が手につかなかった、どうしてくれるんだ』って言われて。本当びっくりするぐらい親バカなんですよ」

大事に育ててきた娘に安定した暮らしと、いつでも傍でサポートできる環境をという親の願いが強かった。

「面談とかも泣きだして帰って。そういう生活が続き、結局短大に行った後だったら美容専門学校に行ってもいいと約束して、短大の秘書科に入りました。親が納得するために短大に行くから、どこでも好きなところに決めていいよと。受験勉強も1分もせず推薦で入って、美容院でアルバイトをして、1年ちょっとして就職の話が持ちかかったときに、意地も何も張らずに改めて自分はどうしたいか考えて、もっと色んな世界を見て将来を決めたいと思って、もう2年大学に行かせてくださいと4年制の大学に編入しました」

大学時代の稲垣さんは、始発の次の電車で片道2、3時間かけて毎日通学し、夜はバイトしてから最終電車に乗って帰る生活。家にいない子で、多い時はバイトを4つ掛け持ちしていた。その忙しさの中で雑貨店に刺繍の小物を作って納品、販売してもらってもいた。そこで自分が作ったものが売れる楽しさを覚えて、自分のお店へとつながっていく。

「卒業後、銀行に入ったのは、姉も金融機関だったことと、入った銀行の人事の方がすごいいい方で、こういう方々の元で働けたらと受けました。親に銀行に受かったことを伝えたらすごい大喜びだったから、その当時は店やりたい、だけどまだ出来ない、でも他にやりたいこともないという状況だったので、とりあえず安定を思ってまた親の望む姿になったんです」

自分でつくったものを販売してもらうことをきっかけにセレクトショップに興味を持ったが、オープンさせたのは、自分で作ることよりも、他の人のものを選んで売るということだった。

「作ることにはもう匠がたくさんいることに気づいたんです。私は好きなものに囲まれてる空間が好き、居心地がいいのであって、ものを作るより店を作ることをしたらいいんじゃないかって」

実際にお店を開けてみると、そう簡単ではないというのがよくある話だが……

「いや、すっごい楽しかったです。お客さんにも本当に恵まれて。ただ喋りすぎてしまうのが向いていなかったですね、逆に。楽しいから喋り過ぎちゃってそれ以外の作業がまったく進まない……。話をしていざ買っていくかとなってても、ほんとに欲しい?、話しをして引き返せないだけでは……とか自分に問いただすようになって。そういう向いてなさはありました。ただ店にいる自分はプライベートよりも居心地がよかった。セレクトショップだから好きなものをセレクトするし、買い付けに行った時はものづくりの裏側を見れる。そんな幸せなことは本当になかったですね」

4年ほど営業した後、大変なことが起きる。入っていたビルが、ある日4階から1階まですべて水浸しになってしまった。全損だった。

「続けるかやめるか迷いました。本当はだめだったんだけど、思い入れがあって、その後ちゃんと営業できないまま1年ぐらい契約していました。管理会社が本当にずさんで、なんやかんや補償をもらうまでに1年かかりました。開店時の親切なオーナーさんから変わって、さらにその方から知らぬ間に売られていて、管理会社を経由して保険会社に連絡しないといけなくて、補償の問題で1ヶ月以上返事がないこともざらでした。彼は『1回離れてみたら?』ってずっと言ってて。私はもう水浸しの中、次の日に営業するとか無茶をいっていたくらいで。『でもどう考えても無理でしょ、1回離れてみたら』と夫は言っていました。大事なものや人を失った時にちょっとおかしくなるんじゃないかって思っていたらしくて、現になんかちょっと本当に、精神的におかしくなってもいました。

結局稲垣さんは、1回離れてみようとし、結局丸2年自分の仕事からは離れることになった。

--結婚と夫の名字変更

お店が水害にあうまでの4年間の間に稲垣さんは結婚をしている。

「31歳の時に結婚しました。ご想像の通り親の反対がありました。セレクトショップのオープンパーティーの時には付き合っていて、親も来るから会うことになる。稲垣家の姉妹2人は、一切家庭に色恋沙汰の話を持ち込まなかったこともあって、まずいどうすると。夫が言うには、稲垣家は母と父が私のことが大好き過ぎてファンクラブになっている。しかも普通姉はそれでグレるはずなのに、姉も私のことが好き。それによって私は自立ができないから本当にやめてほしくて……。姉も私より真面目で、色恋沙汰とは無縁だと思っていたんですけど」

両親は、パーティー前日に聡さんに会ったが、どう受け入れて良いのか会話もなく……。会ったという事実は、まるでなかったことになっていたという。その後親から1か月連絡が途絶えたが、突然「その相手でいいと思ってるの?」と電話があった。さらに数年後には、お姉さんに彼氏がいることが発覚し、両親は大反対した。

「姉は真面目だけど強いんです。突き進む。結婚式を予約しました、指輪も買いました、家も買いました、結婚します、と。親としてはもうパニック。夫はもうこのパニックに俺たちも巻き込まれたほうがいいと言って、まんまと『もう好きにしなさい』と」

お気づきかもしれないが、稲垣さんは友美さん方の姓。聡さんが稲垣に“なった”。友美さんの実家は稲垣の総本家で、お姉さんの結婚相手は一人っ子だったため、断念。話を聞いていた聡さんが「俺、稲垣になろうかな」と言い出した。友美さんと話し合うでもなく言い出したことにお父さんは乗り気に。すんなりことは進んでいった。

--妻を上手に引っ張る夫の存在

セレクトショップを閉じていた最後の1年間、友美さんは聡さんの仕事を手伝うようになる。夫婦で一緒に働くことに何か思うことはあったのだろうか。

「縫製仕事は自宅でするので、手伝わされちゃうんですよね。私がセレクトショップをやめて、落ち込んでいた時CADに誘ってくれたんですけど、すごく導入がうまかった。私、クマにすごい目がないんですよ。ぬいぐるみとか。彼がCADでクマを描き出したんですよ。CADやるとこれが出来るよって。何百万もするSHOPBOTの購入を決めたきっかけも、彼はあの機械で自分の家を作りたい。私は愛するアンティークのテディベアを木彫りで表現したいと思ったからなんです。毛まで再現したくて、3Dスキャンの精度のことなど課題はあるんですが、夢ですね」

上手にCADとCNCの世界へ誘った聡さんは、落ち込む友美さんを心配していた。何か熱中することが見つかればという思いもあった。

「僕も彼女がお店をやめてほんと魂の抜けたような、真っ白な“あしたのジョー”みたいになってましたから。意外と長く続いて、3年ぐらいそんな感じだったんですよ。だから何か新しく始めることがあればということもありました。誰でもそうだと思うんですけど、火が付けばCADでも何でも覚えられるはずなので」

「落ち込んでいた時は、外に出かけても、すぐにもう帰りたいみたいな。いろいろなお店を回ったりするのもお客様とどこどこのお店がおいしいよねという会話のネタ探し的なこともあったんでしょうね」

お店という目的は仕事にとどまらず、友美さんの生活すべてに関わるものになっていた。あらゆる日常がどうお店をいい場所にするか、お客さんに喜んでもらうかのためだった。

「彼は気分転換に連れ出そうとしてくれてたんですけどね。水害後の1年間は管理会社からいつ補償のお金が入ってくるかもわかんないのが続いて損害だけがある状態。外出したらお金を使うことになる。それに使うぐらいだったら自分の仕入れに充てたい。自分の好きなブランドの服を仕入れたいと思っていました。あるデザイナーさんに驚かれたんですが、とにかくかわいい物を1つでも多く仕入れたいから、東京への移動も新幹線を使わず高速バスで行っていたんです。バスで行ったら1個か2個多く仕入れられるならバスでいいし、カプセルホテルでいいって」

--特別にシルクスクリーンを施したザジのワンピース

今回ループケアするワンピースは自分の時間のすべてを注ぎ込んでいたセレクトショップで扱っていたもの。

「30歳頃に買ったものだと思います。当時、服は店のものしか買ってなかったですね。当時はザジというブランド名で、いまはザジコというんですが、刺し子などの技法を組み合わせたテキスタイルを提案するブランドです。店で受注会をした時に、シルクスクリーンの柄をセミオーダーできるコレクションがあって、このワンピースは無地の白とオフホワイトがあって、そこにシルクスクリーンの柄を4つの中から選べたんです。花やドットなどいろいろあってどれもかわいくて選びきれない……。せっかくだったら拘りたい!と熱くなっちゃって、「直接伝えたいのでアトリエに行きます!」ってデザイナーさんお願いして東京のアトリエまで行き、「ここはこういう色がいいんですよ」みたいなことをこと細かにお願いして、ザジコの彼女ももう「全部オーダー聞きます!」と言ってくれて、わがままオーダーを聞いてもらったんです。もう絶対一生やりたくないって言われたんですけど(笑)。なので、ほんとに店をやってたが故の特別なオーダー品。飾っておきたいぐらいのワンピースだったんですけど、でもやっぱり飾ってるだけじゃもったいないからちゃんと着て、ちゃんと汚してしまった(笑)」

自分の特別な場所だったお店があったからできた宝物のような特別な服。姿を変えて、これからもふたりの側で使われ続けていく様子は、服を作ったデザイナーにとっても違うよろこびになるかもしれない。




--稲垣友美さんのクッションバッグが完成しました

稲垣友美さんの特別にオーダーしたワンピースをループケアし、クッションバッグに仕立て直しました。

--生まれ変わったクッションバッグを手にした稲垣友美さんからうれしい感想が届きました

"洋服"という着られる運命をもって生まれたワンピース。
大事にしたいと思えば思うほど着れなくなってしまう存在。
そんな想いを持ちながら、このワンピースを着て過ごした日々は本当に楽しかったです。

汚してしまった罪悪感からまるで思い出から目を背けるようでしたが、可愛いクッションバッグに生まれ変わり、物としてだけでなく気持ちも救われた気がしています。
誰かの思い出の洋服にハサミを入れることは、物凄い緊張と責任感との戦いだったかと想像しています。
LOOPCAREという心の拠り所があることで、このクッションバックも沢山、そして大切に使いたいと思います。

この度は本当にありがとうございました。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

PROFILE

PROFILE

稲垣友美

SSca:CNC工作機械プログラマー

1984年広島生まれ
大学を卒業後、金融機関の秘書室にて役員秘書業務に就く。
夢を実現するため退職し、念願のセレクトショップをオープン。
その後ショップの漏水を機に、新たな目標を見つけ夫と共にSScaを設立。
デジタルファブリケーション技術を生かした、新しいデザインのCNCプロダクトを制作。
広島を拠点に活躍している。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

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