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森脇靖さん

インドでもらった
ジャケット

21.06.18
HIROSHIMA

陶工 森脇靖さんはロボットに憧れ、ロボットを作りたいという夢を持っていた。夢を叶えるため国立松江高専に入るも、そこに自分の想う夢のロボット作りはなかった。ロボットから陶芸へという道をいかに見つけたのか。ロボットと陶芸に繋がりはあるのか。自分の技術を信じながら、それよりも素材と使ってくれる人を信じる陶工の頭と手と物の話。

--始まりはロボット

森脇少年は、ロボットを作りたいという思いを持って松江工業高等専門学校に入学する。

「もともと物づくりがすごい好きだったんです。工作をしたら満足感があったり、絵を描いたら褒められたり、スポーツが好きじゃなかった自分にとって、何かを作って人に認めてもらえた事がはじまりでした。当時ロボットアニメも流行っていて、単純にそういうものを作りたいと思ったんです。ロボットを作れる学校があると知って松江高専に行きました」

子どもが思い描くロボットづくりへの憧れをそのままに学校を選んだ森脇さんだったが、そこはアニメロボット的なものづくりを学ぶ場所ではないことに入ってから気がつく。

「自分が勝手に思い描いていた、火の中に鉄を突っ込んでカンカン打ち鎧を作っていくようなものじゃなかったんです。そういうのができると思っていた自分が馬鹿なんですが(笑)。実際はコンピュータや物理を勉強し始めて、これは全然違うぞと、俺の方が違うんですけど。大きな物が見たかったし、もっと素材感がほしかった」

--人生を変えたインド料理屋

思い立った森脇さんは、興味を持った様々な人たちに放課後の時間を使って会いに行きはじめる。そんな中で、その後の人生に大きく影響を及ぼすことになるインド料理屋のオーナーとの出会いがあった。

「ある人からインド料理屋がバイトを探しているからやらないかと紹介されて、おもしろそうだから一回行ってみたら、インド人のオーナーに気にいってもらってバイトすることになったんです。その人がカシミール出身の人だったんですが、日本語が上手で一見調子が良い人だなと思いながら話を聞いていたら、カシミールの紛争で友たちがたくさん死んでしまう経験をしていたり、日本に来た理由も貧しい地域に学校を建てたいからだったりと、やさしくて志しの高い人でした」

森脇さんはオーナーに気に入られ、「やっちゃん、インドに行く?」とインドへの旅に誘われた。お金がないから無理ですよと答えたが、お金はこっちが出すよ、自分が建てた学校を見てほしいと言われるがまま連れて行ってもらったという。

「18歳で初めて行った海外旅行が、何の知識もないインド。僕以外にも何人か日本人が一緒で、デリーやジャイプールを周りました。行く前は、好きになるか嫌いになるかどっちかだねと旅好きな人に言われていたんですけど、好きにも嫌いにもならなくて、ただただ人が一生懸命に生きていることを初めて実感したんです。目の前を歩いていた小さな子供が急にしゃがんでうんこしだしたり、道路を普通に牛が歩いていたり」

--縫製工場でもらったジャケット

インドには約2週間の滞在だった。その間、森脇さんはオーナーがインドで手掛ける様々な事業のひとつ、服の縫製工場に見学に行った。今回ループケアするアウターはそこでもらったものだ。

「見学に行ってじっくり見ていたら、職人さんが来てうれしそうに『そんなに真剣に見てくれるんだったら、これあげるよ』とこのジャケットをくれたんです。荷物がパンパンだったので入るかなーなんて心配をしながらも、その気持がとてもうれしかった。日本に帰ってきて、早速着てみたらめちゃくちゃかっこ悪かった(笑)。インドの服と合わせるとなんともいいんだけど、私服で着るとダサくなる(笑)。でも皮は柔らかいし暖かくて着心地もとても良いので部屋着にしていました。結婚してからは、これを着て不意に登場すると妻が大爆笑してくれるので、落ち込んでいる時に元気付けるアイテムとして使っていました(笑)。気付けば絶妙アイテムです。」

めちゃくちゃな人だった反面すごく面倒見のいい人だった。将来ネパールにホテルを建てるから、その時はみんなでリユニオンしようと話していたという。ところが、何年か前、病気で急死していたことを知る。

「オーナーにはいろんな経験をさせてもらいました。その旅の目的だった学校の竣工式に連れていってくれて、ネパール国境に近いところで、すごく小さな村で。そこの人たちが原爆が落ちた街として広島や長崎のことを知ってるんです。広島は住んでいるところから近いと話すと『そうか、座って飲もう』と。よくがんばったなぁという雰囲気がありました。私は被爆の当事者ではないですけど、日本人ってこういう風に見られてるんだなぁと。日本人としての自分を初めて客観的に見れた時でした」

--人が使うという意味ではロボットも器も一緒

思い描いていたロボット作りと違ってなんとかしなきゃと思って部活を辞め、インド料理屋でバイトをしながら、いろいろなものづくりの人に会いに行くうち、師匠となる陶芸家の原洋一に出会う。

「当時の僕は悩むこと=悪いことだと思っていて、せっかくロボットをつくりたいと高専に行かせてもらったのに親に申し訳ないと感じていました。そうしたら後に師事することになる師匠が、17、8歳の僕に向かって『悩んでいいんだ、自分の人生なんだから』と言ってくれたんです。悩んでいいよなんて言われたことがなくて、しかも大人でそんなことを言う人がいるんだって驚きました。高専に通ってものづくりは組織で行うものという学びがありました。でも俺は材料の調達からお客様に手渡すまで1人でやりたいんだということに、いろいろな人の仕事を見学に行ってわかったんです。それで、悩んでいいよと言ってくれた人が陶芸家だったことと、一人で完結できる仕事でもあったことで陶芸を選びました。人の使うものが好きだったんです。ロボットアニメも結局はロボットを使う人間のドラマですよね。ロボットに感じていたのも人間の生活に関わるものとしての親密さだった。日本人は、1日最低3回は食器を使うし、食器に直接口も付けます。道具としての食器は自分が仕事でやりたいことなんだと思うようになっていきました」

森脇さんは目的のあるもの、人が使うものを作りたかった。ロボットにも関係する人間工学的には興味があったため、どうやったら持ちやすくできるかということも好きだった。

「師匠はいつもお酒を飲んでる人でしたが、ワイングラスの形状はぶどうの種類によって全部違うとか、陶芸の作業よりもそういう話ばかりでした。でもそういうことが大事だったんです」

--素材が持つ可能性を信じる

陶工として独立して20年近くたった。最初の頃は頭で思い描いた理想の色や形を追求していた。けれど、それは井戸茶碗との出会いをきっかけに変わっていく。

「いいなぁと感じる抽象的な色があるんです。でも具体的な色を目標にしてしまうと体も心もそっちにいってしまいます。爪や髪の伸び方や汗の出かた、まして感情なんてコントロールできないように、自分なんてほぼコントロールできていないと思ったんです。青がいいなと思うのも青という言葉にできるから言っているだけで、人によって青は違う。僕が青のお皿をつくりましたというより、使ってくださる方が盛りつけをした時、この青いいねと思うようなそれぞれの色になってほしい。テレパシーで直接脳内のイメージを伝えられたらいいんでしょうけど、それは不可能。だから音楽や夕日を見ていいねと思う感覚を大事にしたい」

まったく同じものを共有できないことを逆手に取り、つくり手と使い手がそれぞれに思う最高の色を感じてもらうことを森脇さんは大事にしている。

「自然の産物は情報量として無限なんです。土が変われば色も変わり、焚き方が変われば酸素量も変わって色が変わる。天気によっても変わる。そのどれも完璧にコントロールすることは不可能。だったらこんな色になったかという感動をシェアできる方法を考えたほうがいい。蟻が巣をつくったり、蜂が巣をつくったりするように自然の一部として、たまたま縁があって器をつくっています。汗をかいたり、爪や髪が伸びたり、コントロールできない感覚のまま作りたいと思うようになったんです」

「例えば古い茶碗をぱっと見た時、茶人や殿様にこう作れと言われたんじゃないかとか邪推してしまう時があります。でも井戸茶碗には、勝手な印象ですが、誰にも指示されていない愛のある仕事が伝わってきます。きっとそれは半農半陶の生活をしている中で、近所の人にお願いされて作ったからだと思うんです。器づくりだけをやっているわけではないので、時間ができた時にロクロを回すわけですが、知っている人からの注文だから手を抜けない。忙しくて片手間だけど手抜きではない愛のある茶碗。それが何かのきっかけでたまたま日本に来た。何百年という時間を経てもそこには心がある。ものは誰かの思惑や流行りに乗るのではなく、材料に真摯になって、近くの材料を好きになったり、気になったことを追求し続けたほうが手元に届いたときに気持ちが伝わりやすいんじゃないかなと思っています」

--土と釉薬、近い場所から取れたものを

諸説があるが、朝鮮半島で日用品として使われていたと言われる井戸茶碗。安土桃山時代から戦国時代にかけて、多くの戦国武将や千利休などの茶人が愛し、価値が見いだされてきた。器と人との良い関係がかつてはあったとして、現在の陶芸家は身近な人のためだけに作るのでは仕事にならない。森脇さんは、このギャップにどう向き合っているのか。

「残念だけど、使う人すべての顔を浮かべながら器づくりはできません。そこで真摯になる対象を人から土や素材、原料にも拡張してきたのかなぁと思います。原料に寄り添うことによって、誰もが持ってる普遍的なものに繋がるんじゃないかと信じているところがあります。木を見た時、なぜあれを木と思うんだろうかとか、前提となる知識から一旦離れて一から考えてみたい。ネットなどの情報のみに寄っていくと、どうしても比較する癖がついて不安定になるけれど、木や森を見たり、原料を触ったりしたら落ち着く。大切なものと向き合う時は、余計なものをどんどん削いでいく。最初は絵付けもしていたんです、でも食べ物を載せることを考えたら絵はいらないなって。使う人次第でこちらの意図とは別に色は違って捉えられる、だったら作り手の自分は素材自体に気持ちをとどめておくことがいいと思ったんです」

森脇さんは、地元島根の石見の土を使っている。たくさんの陶芸家が使うような土ではなく、良い土の産地として知られているわけでもない。

「石見の土って有名な産地の土に比べると暗いんです。焼き上がりがスカッとしていなくて、よくお茶碗で使われる信楽の土のような味わいのある土に比べたらグレーがかったいかにも山陰の土という感じ。この界隈(島根県邑南町)の屋根瓦を見てもらえればわかるんですが、柿色をしています。土は大田など島根の土で、その上に松江や宍道湖にある来待石という石灯籠に使われるような石から作る釉薬をかけるとそういう色になる。石だけで釉薬になるのは珍しくて、かつては益子の方にも出荷されていました。多くの焼き物は長持ちさせるためコーティングとして釉薬を使うんですね。その釉薬は、使っている土の近くで取れたものかというと多くは違うんですよね。石見で取れた土に出雲の釉薬をかけて、モノになる。その関係性がすごく好きで、そこに魅せられています。大田とか江津など島根中央部の陶土を使い、釉薬は島根の西にある益田市のものや東にある宍道湖の来待石を使う。数種類しか使ってないんですけど、島根の中でも微妙に離れたところのものを使っています。色を出すために銅や鉄、コバルト、チタンなどを入れる人もいるんですけど、俺はそれらを入れず、素材にそもそも含まれている微量の金属が起こすハッとする変化を楽しみたい。その組み合わせがなんとなく俺っぽいというか、島根っぽさが出ると思っています」

「自分がコントロールしてるんじゃなくて、されている」と森脇さんは度々口にし、「たまたま肉があって骨格があって技術を得て、たまたま気持ちが向くから作っている」とも言った。大いなる自然の素材だけで作る陶芸品を技術論で語ることは可能だけれど、そこにはない偶然と使い手側の感覚を信じること。材料に真摯になれる人の創作は、創作自体がとても真摯だ。




--森脇靖さんのジッパーシェルフが完成しました

森脇靖さんのインドでもらったジャケットをループケアし、ジッパーシェルフに仕立て直しました。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

PROFILE

PROFILE

森脇靖

陶工

幼少期からロボットを作りたいという夢を持ち国立松江高専で学ぶが追いかけてきた夢と目の前にある学びにギャップを感じて、模索を続ける。
そんな中、焼き物との出会いから陶工になることを決める。
修行を経て、2000年に島根県邑南町に独立開窯。
以降 中国五県をはじめ 兵庫 愛知 東京にて会を開催し支持を広げている。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

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