森川公美さん
と
神主だったお父さんの
装束
21.02.08
HIROSHIMA
広島市の広島交響楽団にフルーティストとして所属する森川公美さん。大阪で生まれ育ち、中学時代から強烈に憧れたパリ国立高等音楽院へと留学し、プロの演奏家となった。フルートをはじめたのは、ピアノが嫌だった子供時代、フルートを勧めてくれたお父さんの存在があった。
--神主だったお父さんの装束
フルート奏者、森川公美さんは大阪府茨木市の山間にある神社の娘として生まれた。今回アルバムへとループケアするのは、亡くなったお父さんが生前着ていた仕事着である装束だ。
「季節ごとにいろいろな祭事がありますから、装束はたくさんあるんです。きれいな状態で残っているものは神社の仕事を引き継いだ家族が着ています。現在は、母が宮司を引き継いでいて、私の姉妹と、妹の夫が手伝っていて、その彼が父の装束を着てくれています」
小さな神社だったが、藤原鎌足が開いたとされ、周囲の山中では大化の改新前夜、鎌足と中大兄皇子の密談がなされていたという一説も残っているらしい。神社の社紋も、藤原系のものである藤文様。だが、森川さんの家が元々その土地の人間というわけではない。
「滋賀で神職をしていた曾祖父が、ご縁あってここに奉仕することになったようです。
その後を継いだ祖父は私の父が子どもの頃に亡くなって、伯父である父のお兄さんが継ぎ、さらにそれを父が、そして今は母が引き継いでいます。」
神職とのことで、今回のループケアする装束はお父さんが日常的に着ていたのかと思ったのだが、お父さんの普段の仕事は教育関係であり、神職としての仕事は祭りや依頼があったときだけだった。
「普段は教師として勤めていましたが、お祭りのときや、お祓いの依頼があれば神職としての仕事をしていました。だから普段の父は神職というより学校の先生という印象で、スーツを着ている方が多かった。忙しくて家に帰ってくるのはいつも遅い時間でしたね。でも、家では狩衣が干してあったりして、風景の中にはいつも装束がありました」
--フルート好きだったお父さんからの勧め
フルート奏者である森川さんと音楽の出会いはどこにあるだろうかと考えた。神社が実家であればお祭りの時の和楽器の演奏かもしれないと思い、聞いてみた。
「大きな神社であれば社務所で御朱印や御札の受付をしたり、笛の練習をしたりという風景が日常の中にあったかもしれませんが、うちは小さな神社だったので、お祭りのときには演奏する楽人さんに来てもらっていました。そういう方々と接する機会が年に3、4回ありましたが、音楽との出会いはそこではないんです」
森川さんが音楽を始めたのは、神社とは無関係だった。きっかけは音楽好きのお父さんと声楽科を出て学校で音楽の先生をしていたお母さんという両親にあったという。二人は職場で出会っての結婚だった。
「母は昔から子どもたちに音楽をさせたいとは思っていたようで、私を含めた三姉妹みんなピアノを習わせてもらっていました。でも私はピアノが合わなくて、右手は上手にできるんですが、どうにも左手がついていかない。三姉妹の中でもあの子はピアノじゃないわねみたいな感じになっていました。ピアノは練習をたくさんしないといけないし、その練習がおもしろくなかった。今となってはピアノをもっとしっかりやっておけば良かったと思いますけど、練習しないで母に怒られるのがいやで、嫌いな楽器になってしまったんです」
小学4年生になる頃、怒られて渋々ピアノを続けていた姿を見て、ピアノじゃない楽器をやってみたらと言われていた。お父さんは職場で「歯並びがいい子はフルートが向いている」という情報を耳にして、森川さんに勧めた。すると森川さんは「わかった、やる!」と素直に受け入れたそうだ。
「父に勧められて初めてフルートというキーワードが出てきて、曲を聴かせてもらっているうちに好きになっていきました。中学生になって吹奏楽部に入り、すぐにフルートを買ってもらいました。父はフルートがすごく好きで、フルートのクラシック名曲集みたいなレコードもたくさん持っていました。フルートを吹くことに憧れがあったんでしょうね」
フルートには、ピアノと違い何の疑問も持たず、取り組むことができた。「自分の楽器という感じ」だったという。
--PARIS! PARIS! PARIS!
「父がフルート奏者のCDをいろいろ買ってくれて、隅から隅までブックレットを読んでいました。その時、たまたまですが、どの演奏者もみんなパリ国立高等音楽院を出ていることに気づいたんです。中学一年でフルートを始めて、中二のときにはパリ国立高等音楽院に行くことを決めていました。田舎のすごく弱い吹奏楽部で、コンクールでも銅賞どまりなのに、パリ、パリと周囲にずっと言っていましたね。恥ずかしい(笑)」
大学への憧れを飛ばして、夢は早くもパリ。パリに行くことだけを考え、大学はなるべくお金がかからないよう地元大阪から通える公立のところ。クラシックの演奏家であれば東京藝術大学のような大学を目指す人も多いが、パリを見ていた森川さんの目はそこには向かなかった。
「できるだけお金を節約してパリに行かせてもらおうと思っていたので、関西の公立の音楽学部と考えて京都市立芸術大学に入りました。パリ、パリと言い続けていたら、教わっていたフルートの先生が道を付けてくれようと手を尽くしてくださって、大学1年でウィーンやドイツ、フランスの先生のレッスンを受けられるようにしてくださったんです。その中でレッスンを受けたフランスの先生が、『きみは何歳だ』と聞いてきて、『18歳です』『それならすぐフランスに来なさい』と」
パリ国立高等音楽院は入学に21歳という年齢制限がある。かつ受験回数は3回だけ。18歳だった森川さんは、制限いっぱいの21歳までにギリギリ3回受験することができる。何の準備もなしに受かるものでもないため、試験に向けたレッスンや勉強をする期間も考慮しなくていけない。森川さんは一気に動き出した。
「東京の楽器店でレッスンを受けていたんですけど、お店の電話を借りて親に電話をして『いまフランスの先生にすぐパリに来いと言われたんだけど、行っていいですか?』と。親からしたら『はあぁ?』ですよね。でも私は、うわ、すごい動き始めたと思い始めていて、泣きながら電話していたんです。ずっとパリパリ言っていたし、『今しかないとなれば、もう行け』と行かせてもらえることに。大学に入って早々でしたが、日本の大学のことはどうでもよくなってました」
--パリへの道は突然開かれた
「パリの試験のためにフランス式の勉強を一刻も早くしなさいと。音の出し方とか発音とか、若ければ若いほうが覚えるのも早いからと思われたんでしょうね。フランスは、パリとリヨンに国立高等音楽院があって、パリ市内には市立とか区立とかの音楽学校がたくさんあるんですけど、そこは国立の高等音楽院に入学させるための準備段階的な場所でもあるんです。そこに入れば、みんな上を目指しているから、揉まれて成長するだろうと、先生が紹介してくれて。親もはじめは心配していましたけど、何年かするとパリにいつでも泊まれる部屋があるなんていいねとなって、よく旅行にも来ていました。父はコンサートに行くのがとても好きで、パリに来てからウィーン、プラハまで足を伸ばして聴きに行っていました」
3回受験し、最後の3回目で合格。晴れて入学のはずが、その年に誰も卒業生が出ず、卒業生がでないと新入生を受け入れないことになっていたため、入学は翌年に持ち越しとなった。合格者リスト入りで受けた翌年の試験で改めて合格し、パリ国立高等音楽院に入学する。その年の同じクラスの入学者のうちアジア人は森川さんだけ、他はフランスとベルギーの人だった。98年に入り、4年間を過ごし、2002年の6月に卒業。7年半いたパリの半分は受験の準備をしていた感じだったという。パリ国立高等音楽院に入ることを夢見続けてきた森川さんは、入学して夢を実現した。早々に夢を実現してしまったわけだが、そこから先はどんなことを考えていたのだろうか。
「パリ国立高等音楽院に入ったら、あとは輝かしい道が敷かれているに決まってる、と思っていました(笑)。でも、そんな簡単ではなかった。パリに残ることも考えたんですが、外国人がフランスで定職につくのって難しいんです。オーケストラに入りたいと思ってオーディションを受けるわけですが、その募集要項には入れる人の優先順位が書かれていて、まずフランス人、該当者がいなければEUの人、それでもいなければ外国人と書いてある。師匠がそれを見て怒って、『こんな条件でやっても時間の無駄! 日本のオケを受けなさい』と。」
これからの進路を考えていたタイミングは、偶然にも日本のオーケストラにたくさん空席が出た時期だった。これから2年の間にオーケストラのポストを得られなかったら、しばらく就職は無理ではないかと言われてもいたそうだ。
「学部が終わって院に行こうかと思ったりもしていたんですが、日本に帰るなら今じゃないかと。パリでオーケストラのエキストラの話が来ても、そこから警察署に労働許可を取りに行くと二週間かかるとかざらなんです。なのに学生にエキストラの話が来るのは前日とかで、間に合わない」
日本帰国後、大阪でオーケストラのエキストラに呼ばれたり、自分でコンサートを企画したりしながら二年間を過ごし、全国でオーディションを受けていった。結果、広島交響楽団に縁があった。
全国でオーディションを受けていった。結果、広島交響楽団に縁があった。
「オーケストラに入れるならどこの街でもよかったんです。大阪のオーケストラに空席はなくて、たまたま広島に入れました。入って16年です。私はどこの街でもよかったんですけど、父からすると仕事が終わってからでもコンサートを聴きに行ける広島はうれしかったみたいです。」
--装束に見慣れている息子
たまたまめぐり合わせで住むことになった広島。
「もう大きな都会には住めないなと思います。広島くらいのほどよい都会がいい。すぐ山があって、川があって。人も多すぎず。実家は大阪ですけど、山のほうで育ったので近くに山と広い空がないと生きていけない」
子どもにも恵まれた。子どもは広島で生まれ、広島で育った。大阪の実家に帰るたびに装束を目にしてきた息子さんは、天皇家の式典をテレビで見たとき、「あの人が着ている服みたいなのおばあちゃんの家にもあるよね!」と言うようにもなったという。アルバムに姿を変えても、息子さんは気づき続けてくれるだろうか。
--森川公美さんのアルバムが完成しました
森川公美さんの神主だったお父さんの装束をループケアし、アルバムに仕立て直しました。
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
おりでちせさんと
捨てられなかった
古着のシルクスカート
イラストレーター
20.01.18
原田健次さんと
店を始めた時に作った
エプロン
地粉うどん店 わだち草 店主
20.05.28
山田淳仁さんと
東京時代に購入した
スウェット
株式会社酒商山田 代表取締役
20.02.18
岡崎洋子さんと
東京に行くべく買った
ワンピース
占い師フランソワーズ
20.03.28
川口朋子さんと
2回しか着ていない
着物
会社員
19.11.18
平尾順平さんと
イランで買った
伝統柄の布
ひろしまジン大学 代表理事
19.12.08
木下敬文さんと
店を始めた頃に買った
スウェット
株式会社Hand-Me-Down 代表取締役
20.03.08
櫻木直美さんと
長女の入園時に作った
レッスンバッグ
株式会社マアル 代表取締役
20.08.28
池田真莉さんと
お父さんのシャツと
お母さんのハンカチ
ウェディングプランナー
19.12.28
稲垣友美さんと
特別にオーダーした
ワンピース
SSca:CNC工作機械プログラマー
20.07.08
おりでちせさんと
捨てられなかった
古着のシルクスカート
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20.01.18
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店を始めた時に作った
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地粉うどん店 わだち草 店主
20.05.28
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スウェット
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ひろしまジン大学 代表理事
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株式会社Hand-Me-Down 代表取締役
20.03.08
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20.08.28
池田真莉さんと
お父さんのシャツと
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ウェディングプランナー
19.12.28
稲垣友美さんと
特別にオーダーした
ワンピース
SSca:CNC工作機械プログラマー
20.07.08
商品毎に、1回分の無料修繕サービス(リペア券)がご利用いただけます。
完成品といっしょにリペア券をお届けいたします。