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柚木藍子さん

長女が1歳から着ていた
大きめTシャツ

21.11.18
HIROSHIMA

広島初の自然光ハウススタジオ「atelier coupe」と「photo studio Marque」を立ち上げ、たちまち予約の取れないスタジオへと育て上げた柚木藍子さん。カメラマン、編集者、クリエイティブ・ディレクターと様々な顔を持ち、5年生の女の子と3年生の男の子のふたりのお子さんを持つ母親でもあります。編集者、フォトスタジオを経て、老後はボランティアかなと語る柚木さんのこれまでとこれから。

--早く自立して働きたかった

1983年2月、広島に生まれた柚木さんは、読書感想文や作文など書くことが好きな子どもだった。中学生の頃から、早く働きたい、自立したいと考えて高校は家政科を選択したという。

「具体的にこうなりたいという夢はなくて、早く働きたい、早く自立したいとしか思っていませんでした。高校も普通科には行きたくないけど、特別やりたいこともない。技術や知識が身につく専門学校的な特化した学科に行きたくて、商業科と家政科から楽しそうな家政科を選んだんです。高卒で18歳から働き始めたら、大卒の22歳の人よりも4年経験があることになる。経験値を上げるほうがいいかなと思って早く働きたかった。自分のものは自分で買いたいとも思ってましたね」

特別不自由な生活や不自由な人間関係だったわけではなく、稼ぐことに生きがいを感じていた。働いたら働いた分だけ得られるということへの満足度もあったが、そのお金で好きなものを買いたいという気持ちも強かった。洋服が好きで「物欲の塊だった」という。

「小学生ぐらいから洋服が好きで、お金は貯めずに使って楽しく暮らしたい。遊ぶために働くというのが昔から自分のモットーですね。どうやら産まれた時の私は、相当不細工で両親が心配するくらいだったらしく。『まずい、この子、結婚できないぞ!』『仕事に生きる名前にしよう』と考えて、キャリアウーマンになる名前を調べた結果“藍子”という漢字にしたそうなんです。めちゃくちゃ失礼な話ですけど、意外と間違ってない生き方にはなってるなと。結婚はできましたけどね」

--企画、編集、取材、執筆、撮影までひとりでこなす

高校を卒業後、一旦就職するも辞め1年近く“自分探し”的なことをしていた柚木さんは、タウン誌で編集者の募集を見つける。

「『急募』と書いてあったんですけど、条件は短大卒以上。それでもダメ元で送ってみたら『面接に来てください』と。奇跡的に採用されて19歳で編集の会社に入り、24歳まで働きました」

こうして社会人として最初のちゃんとしたキャリアがはじまった。書くことは好きだったが、タウン誌の編集部は、企画、編集、取材、執筆、撮影まで一人でこなさなければいけない。

「当時は、本の納品までやってました。その頃はフィルムでしたけど、カメラは先輩に教えてもらったのが今にまでつながっています。取材も『タイトルのコピーが浮かぶまで帰ってくるな』と先輩に言われて育ったので、肝となるところが聞けるまでは帰れないと思いながら時間をかけて取材をしていました」

当時、地方にとってタウン誌は、情報の最先端にいると思わせてくれる媒体だった。

「広島のいろんなことが知りたい、もっと広島でおもしろく過ごしたいという思いがあって、そういうことの最先端にいると思って働いていましたね。音楽も好きで、aikoさんや山崎まさよしさんのような広島に来たミュージシャンにも取材で会えました。」

雑誌の編集部は激務である一方で、それに見合う収入があるかというとそうでもないのがよくあること。柚木さんも例外ではない。

「お給料は正直良くはなかったですよ。でも、だからこそ違うものに価値を見出すようになったんだと思います。お金では買えないものに気付き始めたというか。深夜まで働くことが普通で、しんどすぎて辞めたいと思うこともありましたが、あの5年間のおかげでいまのような働き方ができるようになったということでもある。考え方が変わったというか、常にいいとこ探しができるようになったり、よりおもしろがれるようにはなったかな」

--子どもを子ども扱いしないこと

24歳で結婚した柚木さんは仕事を辞め、ごはんをつくったり、家のことをしたり、結婚生活を楽しみたいと考えた。時間の融通が効くフリーランスのライターとして1年半ほど働いた頃、妊娠がわかる。
「出産から2、3カ月でもう取材に行きはじめました。新生児の1カ月間、実家で引きこもっていた時間が情緒不安で辛すぎて、毎晩泣いているような状態でした。外に出たほうがいい、そのほうが子どもにも優しくなれると思って早く復帰しました」

2010年、26歳で1人目を出産。2012年に2人目を産んでいる。両家の祖父母に手伝ってもらいながら、仕事と育児と家のことをこなしてきた。

「子育てで考えているのは子ども扱いしすぎないこと。早く自立できるようになってほしいと思っています。だからあまり甘やかしてはいないと思います。傍から見たら優しくないと思われてるかもしれませんね。親子というよりも、1人の人間として会話したり接しています」

--「勝算はあります。だって私がほしいから」

2013年、下の子がまだ0歳のタイミングで最初のフォトスタジオ「atelier coupe(アトリエクペ)」を立ち上げる。そんな大変なタイミングでなぜ事業を始めたのだろうか。

「早くやらないと、誰かに先を越されちゃうと思ったんですよ。今でこそフォトスタジオも増えましたけど、当時広島にあったのは大手のいわゆるザ・写真館くらい。産婦人科でも、そういうところの無料撮影券をくれて、生まれたらみんな撮りに行くわけです。1人目の時、右に習えで自分も撮りに行ったんですけど、いろいろ衝撃を受けました。仕上がりも思っていたのと違うし、着替えていっぱい撮るのに、撮影が無料なだけで1枚購入する毎にどんどんお金がかかる。わが子のかわいい写真をばーっと並べられて、どれがいらないかを選ばせるわけです」

愛するわが子の写真でかわいくないものなどないわけで、苦しい作業をさせるものだ。

「そうなんですよ。全部いいに決まってるじゃん!て。すごい疑問を感じたし、台紙に入った写真は結局開かないと思ったんです。同時期にTwitterでつながっていた東京の同じくらいの年の子どもを持つママから、とんでもなくおしゃれな自然体のファミリー写真が年賀状できたんです。度肝を抜かれました。『なんじゃこれ、ばりおしゃれじゃん』て。広島にもほしい!とその時に思いました」

2年後に二人目を産んだ後、思い描いていたフォトスタジオはまだ広島にできていなかった。

「私がこんなに欲しいと思ってるのになんでないんだろう。じゃあ、作ればいいかという発想で、一気に。産後すぐに思い立って、夫に会社の事業としてやりたいとプレゼンしました。仲間に入れてもらえませんかと。『勝算は確実にあります。なんせ私がこれだけ欲しいと思ってるんだから、広島のお母さんたちもみんな欲しがってる』って。写真は私が撮ればいいとして、もうひとり子どもが好きでセンスが近くて一緒にやれる人と考えたら義理の姉が浮かんですぐに口説きました。改装可物件にも出会って、DIYで壁を塗ったり床を貼ったり」

自然光、かわいい衣装とセット、データは撮った分そのままあげます方式で始めたスタジオは、あっという間に人気になっていった。やはり、広島の小さな子を産んだママにとっても待望だったのだろう。

「それはすごく思いました。タウン誌時代に培ってきた縁や経験も生きました。難しいライティングを組むのではなく自然光で撮ることもポイントでした。子どもはフラッシュを嫌がりますしね。遊んでいたらいつの間にか撮られていて、いつもの自然な笑顔になっているという」

--ターゲットは常に私

クペはキャンセル待ちの人気になり、手狭さもあったことからもう少し広いところを探したいと考えた。自分の子どもも成長し、年相応の雰囲気で撮れる場所がほしいという思いもあった。2017年、3階建ての古いビルを一棟借りし、会社の事務所もそこにまとめることに。「photo studio Marque」がオープンした。

「クペに比べて余白がたっぷり取れて、もっとシンプル。クペも残して2店舗やることも考えたんですが、スタッフの確保の問題もあったのでクペは閉めることにしました。会社を大きくしたいという気持ちもないので、自分たちが楽しく働けるやり方を探ってそうなりました」

自分がやりたいことを自分がやりたいようにやる。そのためにも無理をしない、自分サイズで気持ちよく仕事をする。それはとても大切なのではないか。

「常にターゲットは自分なんですよ、何かを考えるとき。もう子どもも大きくなったので、写真もそんなに撮らなくなったし、撮るなら家族写真がいい。最近は、また違うことをやりたいなと考えたりしています。写真館は、クペ以降広島に十何店舗もできて、雰囲気の違ういろんなお店がある。私が欲しかったものを他の皆さんがやってくださるなら、うちがやらなくても、みたいな気持ちも少しあります。義姉がわんちゃんを飼い始めたから、わんちゃんも撮れるようにしようとなって、最近犬もOKにしたんです。犬の撮影は毎回とっても楽しいですよ」

--60代は文房具と駄菓子の店を

「夫が『写真館はみんなが喜ぶいい仕事だね』と言ってくれていて。誰かを蹴落すわけでもない、本当にプライスレスなものを残せるすごくいい仕事だって。確かにそういう方向性は大事だなと。そんな中で最終的に行き着く先はボランティアかなと最近は思っていて。物欲の塊でお金お金と言っていたけど、違うやりがいを仕事に見出すことができて。その先にあるのはボランティアなんじゃないかって。ふと父親のことを考えたら、父ってボランティアに力を入れていた人なんですよ。あ、血だなと。50代はこれまで培った縁やスキル、経験、知恵を生かして広島を盛り上げるコンサル業もやってみたい。60代は子どもが通っている小学校の近くで文房具と駄菓子の店をやるのもいいかな、なんて。子どもたちが学校帰りに寄って、家族以外の人といろんなことを話せるような場所にしたいんですよね」

帰り道の小学生を見守る街のおばちゃん。個人商店が減り、コンビニやモールが買い物の中心になることで、子どもが帰り道に寄る顔見知りの個人商店が減ってしまっている。防犯上も役割があることでもある。

「朝は登校時に買えるように7時半から開けて、学校がやっている間は閉めて、下校時間くらいから再オープン。昼の閉めている間は、近所のおばちゃんたちと昼から飲める店とかもいいな。健全じゃなくていいから、いろいろ人生を教えてあげられる場所になったらいいですよね」

--Tシャツをアルバムに

老後のプランニングまで見えはじめている柚木さんは、長女が1歳から着ていたTシャツをアルバムにループケアする。

「写真を仕事にしているので、子どもたちの写真を入れるアルバムにしようかなと。100センチなので、4歳ぐらいまでは着てたと思います。小さい頃はワンピース的に着てましたね。ミュベールというブランドのキッズラインなんですけど、子どものTシャツなのに1万5000円くらいした記憶があります。すごく高かったんですけど、なんせ服が好きだし、一人目の子どもで女の子ならかわいいのを着せたいじゃないですか。4、5年は着せようと思って買いましたね」

七五三や家族写真など、自分で撮れない時はスタジオで他の人に撮ってもらうこともあるという。いくら仕事で子どもを撮っていても、自分の子どもの時にうまくいくとは限らない。

「下の子が3歳の時に七五三の写真を撮ろうとしたら、ギャン泣きで思うように写真が撮れなかったんです。この写真の私の背中、『いい加減にして』って完全に怒ってますね。思うようには撮れなかったんですけど、これもひとつの記念で思い出なんですよね。泣いたまま撮った写真も」

むしろ嫌がったよねという話がずっと語られ続け、忘れられない記憶になっていく。

「この後、数カ月後にリベンジしたんですよ。そしたら、ちゃんと笑顔で撮れて。子どもの成長ってそんなもんですよね。そういう経験があるから、子どもが泣いちゃって撮れなくて、お母さんがガックリという時も自分の体験談を話せる。『いやー、実はうちも失敗したんですよ(笑)』と言うと、『そういうもんなんですね』『何年かして見返したら、楽しい思い出になっていると思いますよ』って。楽しみに来ていただいたのに、がっかりさせたまま帰らせたくないですからね」




--柚木藍子さんのアルバムが完成しました

柚木藍子さんの娘さんが1歳から着ていたシャツをループケアし、アルバムに仕立て直しました。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

PROFILE

PROFILE

柚木藍子

Photo Studio Marque代表

1983年 広島生まれ
雑誌編集とフリーライターとしての経験を積み、24歳で結婚、26歳で母となる。
育児の中で気がついた想いを「ターゲットは自分自身」と位置付けて、
フォトスタジオの事業を立ち上げる。
その他、空間プロデュース、セミナー講師など活動は多岐に渡る。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

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