原田健次さん
と
店を始めた時に作った
エプロン
20.05.28
HIROSHIMA
2003年にオープンした「わだち草」が作るのは、自家栽培した無農薬の小麦に、福岡の石臼挽き小麦、岡山、北海道の小麦粉を合わせた国産小麦だけの「地粉うどん」。食と暮らしと自然が、有機的に心地よくつながっていくことを大切にして日々作られるうどんは、なんと豊かなのだろうか。原田さんはなぜ地粉にこだわったうどん屋を始めたのか、そこには小さな頃の原風景があった。
--落ちたとわかった受験の日に東京行きを決めていた。
2003年5月にオープンした「地粉うどん わだち草」は今年で18年。様々な業種の中でも閉店、閉業率が高い飲食店にあって、しっかり地元に根付き、安全安心で自然の味わいを生かした食材の扱いなど、評判はますます上がってきている。だが、オーナーの原田さんは、元々うどん屋でしっかり修行をして独立という系譜の人ではない。
「飲食の仕事をやること自体初めてです。うどん屋をやると決めて、前職の自然食品店を辞めてから店をオープンさせるまでの1年間はうどん屋さんで勉強しました」
つまりうどん屋をやりたいと思い立って会社を辞め、うどん屋に修行に入ったということだ。
「あ、うどんの作り方を知らないぞって。うどんの作り方も知らなければ、飲食店自体も経験がないから、営業の流れも分からなくて」
原田さんはそれまで様々な仕事をしてきた。元々広島県三次市出身の原田さんは、高校までを三次で過ごし、18歳から30歳までは東京で暮らしてきた。大学進学に合わせた上京だったのかと思ったが、どうやら違ったようだ。
「広島県北の三次は、田舎で自然が豊かなところで、それ自体は嫌いじゃないんだけど、価値観の狭さと言うか、とにかく街で暮らしたかった。だから東京の大学に行こうと。だけど大学はすべて落ちたんです。最後のひとつを受けた瞬間にこれは落ちたなと分かった。その時、やっぱり大学は上京したい理由付けだったと気づいたんです。受かろうが落ちようが東京に行きたかった。試験を受けた後、その足で不動産屋を回ってアパートを探して、ある程度決めてから広島に帰りました。で、帰ってから両親に東京に行くねって」
--音楽から食の世界に入った入り口としての自然食
原田さんが上京を強く願っていたのは田舎を出たいということだけではなかった。
「その頃、バンドを組んで音楽をやっていたんです」
音楽青年だったのだ。
「音楽がやりたくて、フリーターをしながらいろいろなところで働きました。最初はアパートのすぐ側にあった電気屋でした。とにかくお金を自分で稼がないと自分勝手に出てきたし、自分の力で暮らしたかったからとりあえず決めました。小さな町の電気屋さんなんだけど、そこがすごく居心地良くて、社長さんも奥さんもとてもいい方で。気がついたら一年近く電気屋の仕事してて、このままじゃ、うっかり電気屋になりそうで慌てて辞めました。電気屋になるために東京に出たんじゃないぞって。それから下北沢の中古CDのお店に入って、そこで働きながら音楽活動もしました。弾き語りで歌ったり、バンドでドラムを叩いたり。とても楽しかったです。そうそうこれこれって感じで。でもしばらくするうちに、このまま頑張ってプロになりたいというのとも違うし、とりあえずやりたかった気持ちは満足してしまったんですね。当面の目標は叶えたし、さあこれからどうしよう、何を目的に、目指して生きようかとしばらく悩みました。CD屋も2年くらい働いたし何かを探したくて辞めまし。その後は工事現場で日雇いの仕事もしたし、アウトドアショップでキャンプ用品の販売の仕事をしたり、そして高校生の時から好きで通っていた無印良品でアルバイトの募集をしていて、そこでまた2年くらい働きました。ここも楽しかった。その間も仲間とバンド活動はしていました。で、ある日たまたまある自然食品店の前を通ったんです。自然食品のお店ってその頃はまだ宗教的というか怪しげな雰囲気のお店が多くて、自分はちょっと苦手だったんだけど、そこは一切そういう空気がなくて、若い子がすごく楽しそうにロックとかかけながら有機野菜を売っていた。無添加の調味料とか。ナチュラルな感じで、これはいいなと思って、無印を辞めて、その店「グルッペ」に入ったんです」
グルッペは荻窪、吉祥寺、三鷹にお店を構える、1977年オープンの老舗自然食料品店。オーナーが有吉佐和子の『複合汚染』を読んだ衝撃から、食の安全、人々の健康を支えるべく始めたお店だ。農家の家に生まれた原田さんにとっては、新鮮な驚きであったと同時に原点に帰るような感覚もあったようだ。
「グルッペには24歳から30歳までいました。東京に出てきて、都会もいいけど田舎も好きだったから、いつか帰って農業を継ぎたいという気持ちも最初の頃からあったんだなと気づいたんです。」
田舎に戻るという選択肢が具体的なものとして原田さんに見えはじめていた。
「すごく自然に農業をやりたい気持ちがあった。農業をやるとしたら、どんなことが楽しいだろうか、ただただ畑を耕して泥にまみれるのも、それはそれで無心になれていいけど、それだけじゃないというか、自分ができることは何かとずっと考えていました。農業だけじゃなくて、何かを絡めてできたらなと思っていて。そうこうするうちに、『あ、飲食店いいかもしれない。できるかも』と」
--何かを伝えること、その手段を考える。
そして、原田さんはすでに三鷹店の店長を任せられるまでになっていましたが、お店を辞めるお願いをし、小麦の試験栽培を始め、うどん屋に修業に行き、1年間の準備期間を経てわだち草をオープンさせた。その背景には、グルッペで有機野菜を中心とした食材のすごさを実感的に知り、自信になっていたことが大きかった。
「いい素材で余計なことしなければ、絶対おいしいものができる自信があった。逆に世の中の飲食店は、食材に手をかけすぎているような気がしていました。もちろんその道を極めた人は違うのかも知れませんが、自分は素材の良さを生かす事でおいしいものができると思っていたんです」
原田さんの実家は兼業農家で昔から無農薬でお米を作っていた。お父さんは旧国鉄の職員でもあった。昔から“お宅のお米はうまい”といろいろなところで言われることも多く、そのことはずっと自分の中にあったという。
「無農薬もあるけどやっぱりちゃんと美味しかったということがシンプルにすごいんだと思います。理屈じゃなく。東京時代、友達がアパートに遊びに来ると、大したものは作れないんだけど、ご飯作ったりしてて、でもお米が特別に美味しかったようで、みんな感動してくれていました。なんでこんなに美味しいんだって」
そうした農業や食へのこだわり、自然で豊かな暮らしへの希望は、かつて原田さんが夢見てきた音楽の世界とつながっていることでもあった。
「昔は音楽で人になにかを表現したり伝えたいって思っていて、それは、平和についてだったり、自由な生き方だったり、普通の暮らしの素晴らしさだったり。そんなミュージシャンに憧れていたけど、音楽はやめても気が付いたらこうして、うどんや農業を通して、食のことや暮らしのこと、環境問題の事をなんかを伝えようとしてるんですよね。結局やりたいこと、やってる事は変わってないんだなって」
--うどんは、表現でもあるし、ただおいしいものでもある。
では、飲食店をやろうと思った時、なぜうどんだったのだろうか。
「うどんて敷居が高くないというか、普通で、優しいですよね。地元に芸備線の駅があって、昔からよく利用していました。駅の立ち食いうどんとか大好きだったんですよね。三次駅にあった立ち食いうどんのお店は、持ち帰りで頼むとプラスチックの容器に入れてくれて、汽車に持ち込むことができたんです。汁をこぼさないように気をつけながら切符を切ってもらって、車内で食べてました。」
実に風情がある、社会から失われた食の記憶だ。
「ロマンがありますよね。そういう記憶も含めて、自分にとってうどんはソウルフードだなと思うんです。あと風邪を引いたり体調を崩した時に食べたいのはやっぱりうどんだったし、そういう人を癒す力もあるし、うどんって本当にいいなと。
あと減反で使われていない田んぼを生かしたかった。小麦を作りたかった。子どもの頃の記憶で麦畑の景色があって、それがすごく印象に残ってて。あとで気付いたんですけど、それって『未来少年コナン』のハイハーバーの小麦畑の景色だったんです」
未来少年コナンは宮崎駿の初監督作品で、最終戦争後の世界を描いている。宮崎作品のその後を予見するような作品だった。
「宮崎駿の影響は大きいです。そこに書かれている未来の世界ではパンは巨大な工場でプラスチックから作られているんです。でもハイハーバーでは、もう一度自然と共に暮らす生き方を取り戻して畑を耕し小麦を育て自然の力でパンを作っている。僕の目指すところも同じで、そんな小麦畑を作りたかった。現代の食は季節や旬もなくスーパーに行ってお金を払えばなんだって買えるし、どんな珍しいものでも手に入る。でもその食べ物が一体どうやって作られているのか、知らない子供達がいっぱいいる。小麦畑を耕すところから始まって、こうやってうどんになるんだよって、見て食べて感じて欲しいんです。」
麦畑を自らやることへのこだわりには、今の日本のうどんがほとんど外国産の小麦から作られているという現状がある。
うどんに使われる小麦はほとんどがオーストラリア産のASWって品種でうちがうどん屋を始めた頃はおよそ95%はそれと言われていました。ASWはとてもよくできた品種で食感の良いうどんが作りやすかった。逆に国内産の小麦は色も悪く現代人が好む食感を出すのがとても難しかった。生産の面でも収穫期が梅雨の時期に当たる日本では品質にばらつきがあり嫌われました。でも国産小麦には独特の風味と美味しさがあります。自分はそこで勝負したかったんです」
小麦畑から始まるうどん作りならば、自分が表現したいことが全て含まれていると原田さんは考えたということだ。
「食のこと、農業のこと、環境問題のこと自分の言いたいことが表現できる。でも基本的にはそんな思いは味の向こう側に隠しておいて、当たり前の美味しさを感じてもらいたい。そこから興味を持って探っていくと実は壮大なテーマがあるっていうのが理想ですね。味の向こうに小麦畑の風景や耕す人、昔ながらの調味料を作り続ける生産者の顔、そんな事を感じて、だから美味しいのか、美味しいってこう言う事なんだって」
--地粉でうどんを作る難しさ
実際すべてのうどんを自分が作った小麦で賄うことはできていない。そのため今は三次の小麦に、福岡と北海道、岡山の粉をブレンドしている。
「一時は自分の畑の生産量を伸ばそうと思っていたんですが、それをするには農業の時間をもっと増やさないといけなくて、製粉の工程にもすごく時間がかかるし、お店をやりながらはやはり難しかった。あの頃は本当に毎日クタクタで、いつもイライラして家族にも迷惑をかけていました。やっぱり自分が楽しく、健康的でいれないと、何も伝わらないと思うんですよね。だから今は欲張らず、たとえ少量しか使えないとしても、その工程を表現できるだけで十分意味があると思っています。それに最近ではその自家製小麦を全粒粉で使う事で、他にはないうちだけの味を作ることができたとも思っています。」
--まだまだ成長して、味がおいしくなっている
オープンから徐々に評判は上がり、18年続けてきた今では味もお客さんもしっかり定着してきた。うどん屋で勉強したのは1年程度の原田さんにとって、オープン時はなかなかしんどい時期もあった。
「地粉を使っていることもあって、オープン当初からマニアックな食通、うどん通の方が通ってくださって。でも地粉の麺はなかなか安定してくれなくて、美味しいものを出さなきゃってすごいプレッシャーもありました。精神的にも追い詰められていました。
そもそも地粉のうどんて讃岐うどんは全く逆のものなんです。価値観が違うと言うか、簡単に言うと讃岐うどんは食感を一番に考えているうどんで、地粉のうどんは麺の味、小麦の風味を一番大事にしています。讃岐で使われるオーストラリアの粉は食感を出すのにとても優れた粉です。でも風味は弱い。地粉のうどんは食感をあげるのがとても難しい。けど旨味が強い。そこを喜んでくださる方もいましたが、多くの方は讃岐のようなうどんを求められるので、理解してもらえず不評なことも多かったです。まあでも自分の未熟さが一番の問題ではあるんですが。」
本当にちょっとうまくいかないこともあった。それもうまくいっていないことを自分がわかっていただけに苦しかった。
「頭でっかちになってた所もあったんです。当初は自家栽培と合わせるのは広島県産の小麦100%でした。コンセプトとしては理想的なんだけど、粉の性質としてはさらに難しかった、でもみんなに喜ばれる事より、こだわりを大切にしてしまってました。結果的にその広島の小麦が手に入らなくなって、産地を変えて行ったのが結果的に良かったんでしょうね。少しずつ改良を続けて行きました。でも今だったらあの広島の小麦をもっとうまく活かせたろうなとも思います。18年経ってやっと国産小麦でも食感と風味をバランスよく出せるようになってきて、安定感も上がって、今ようやくという感じでもあります。」
--オープンから共に時間を過ごしたエプロン
今回シェルフへとループケアするのは16年間使ってきたエプロン。
「お店をオープンする時に作ったエプロンなんです。他のエプロンとローテーションで使っていましたが、ついこの間まで使っていました。これはその中でも最初の一枚で、紐も同じ生地で作っています。一番のお気に入りでずっと辛い時も嬉しい時も一緒に頑張ったエプロンです。ボロボロですが捨てられず大事にしまっていました。今回これをシェルフにループケアしようと。もう一度命を与えてお店で生かそうと思っています。」
--原田健次さんのジッパーシェルフが完成しました
原田健次さんの店を始めた時に作ったエプロンをループケアし、ジッパーシェルフに仕立て直しました。
--生まれ変わったジッパーシェルフを手にした原田さんからうれしい感想が届きました
わだち草の18年目という節目に素敵なシェルフが届きました。
開店当初から使い続けたぼろぼろのエプロンに新しい命を宿してもらい、エプロンもとても喜んでいる気がします。まるで以前からずっとそこに居たかのように、満足げな表情でわだち草の店内に佇んでいますから。
思い出と未来が詰まった落ち着きとワクワク感、これがループケアの魅力なんですね!
本当にありがとうございました。
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
おりでちせさんと
捨てられなかった
古着のシルクスカート
イラストレーター
20.01.18
山岸玲音さんと
勝手に譲り受けた
父のレザージャケット
オペラ歌手
19.10.28
山田淳仁さんと
東京時代に購入した
スウェット
株式会社酒商山田 代表取締役
20.02.18
岡崎洋子さんと
東京に行くべく買った
ワンピース
占い師フランソワーズ
20.03.28
川口朋子さんと
2回しか着ていない
着物
会社員
19.11.18
平尾順平さんと
イランで買った
伝統柄の布
ひろしまジン大学 代表理事
19.12.08
新里カオリさんと
母親が買ってくれた
ワンピース
立花テキスタイル研究所 代表取締役
19.08.09
木下敬文さんと
店を始めた頃に買った
スウェット
株式会社Hand-Me-Down 代表取締役
20.03.08
梶原恭平さんと
半面教師の父親の
現場用作業着
広島経済レポート取締役
19.04.29
森田麻水美さんと
ウィリアム・モリスの
ファブリック
アートディレクター
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19.09.08
商品毎に、1回分の無料修繕サービス(リペア券)がご利用いただけます。
完成品といっしょにリペア券をお届けいたします。