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梶原恭平さん

半面教師の父親の
現場用作業着

19.04.29
HIROSHIMA

広島経済の最新情報を伝え続ける梶原恭平さんは、多くの企業家に会ってきた。そうした経験は、ずっと近付き難い存在だった、かつて自分の会社をつくり働いていた父親という存在を、見直すきかっけにもなった。梶原さんが感じた父と母という存在の切り離せなさ。

--ちょうどいい規模の街、広島

「『広島経済レポート』は1951年創刊で、地元企業の売上や動向、新製品開発、工場の新設など様々な話題を直接取材して、週刊で発行しています。年に1回、『広島企業年鑑』と『ひろしま業界地図』を発行し、企業情報ではなく地元のスポーツなどを取り上げるフリーペーパーも作っています。」

B5横判型。一般紙でも業界紙でも見慣れないサイズだ。広島はマツダを始め、地元に多くの企業が存在している。東京や大阪などとは街や経済の規模は違うが、独特の存在感がある。

「広島はちょうどいい市場規模なんです。東京や大阪などの大都市では、このビジネスは難しいと思います。
広島は、異なる業種だけどここの社長とここの社長は実は同級生だとか、一定の市場規模の中で、同業者の距離感が近く競争は激しい。ある程度市場規模が大きくなるとそうした内輪の事情があんまり関係なくなるのかなと考えています。市場が小さすぎても部数を伸ばしにくく、ビジネスとして成立しにくい。広島は絶妙な規模なのだと思います」

いくつも大企業があるとはいえ、最近は全国的に小さなレベルの企業や商いが様々に現れている。それは広島も例外ではない。

「小さな企業もたくさん取材します。上場企業から1人でやってるようなところまで対象です。それがうちの強みの一つにもなっていると思います。僕らは週刊ですが、地元の大きな街づくりプロジェクトをどちらが先に書くかという点では、日経新聞や中国新聞経済部の記者さんとある意味で勝負をしています」

地場の社長たちの関係が特別に深いなど、『広島経済レポート』は創刊以来70年近い実績と付き合いで、「特別おたくにだけ言うけどさ」というような独自の取材ネットワークを持っている。新聞社が俯瞰して地域を捉える目線とは違う角度から深掘りして書くことで、価値を証明している。

「うちは徹底してジャーナリズムを省いてるところがあるのかもしれません。地域に何が起きているかをひたすら客観的にピックアップしていく。そうして集まったデータの集積がビジネスの種になって、営業活動に活かしたりしている企業さんは多いと思います」

--ゾマホン好きから始まった日本語教師という夢

梶原さんは福岡生まれ。18歳で広島大学教育学部に入学した。大学時代は日本語教師を目指し、留学生に日本語を教えることも実際やっていた。いずれは広島を出るつもりでもあったという。

「元々ベナン人のゾマホンが好きだったんです。めちゃくちゃ苦労している人で、単身日本に来て日本語学校に通いながら、芸能活動も始め、社会貢献活動も非常に熱心にやっています。そういうのを見てたのと、従姉妹が国連のある機関に勤務していたこともあって、漠然と海外に興味を持ったんです」

外国への興味を強く持ちながらも、自分が海外へ行くということにはならず、来日していた外国人に日本語を教えるということに楽しさを感じていた。

「日本語教師って昔からボランティアで成り立っているんです。日本語教師として活動している人のうち約6割はボランティアです。海外には実際に行ってはいませんでしたが、いつも国籍もバラバラなたくさんの外国人と一緒にいました」

教員免許も取り、そのまま日本語教師で生きていくことも考えたが、仕事として専業化するには、ボランティアで成り立つ現状では難しかった。人と会うことが好きだった梶原さんは、山口県の旅行会社に就職。ツアーを組んだり、添乗員として旅先を案内するなどして、国内をメインに3年間を過ごした。

「楽しかったですよ。でもいわゆる旅行としての楽しさは少なくて、美談でもなんでもなく直接ありがとうと言ってもらえることが喜びという仕事でした。しかも知らない人たちと思い出を共有することもおもしろかった。何回も一緒に旅行に行く人も出てきて、つながりを楽しめる人には最高の仕事だと思います」

19歳から付き合い始めた奥さんも日本語教師をしており、奥さんは大学卒業後も教師業を長く続けた。梶原さんが旅行会社で働いている時期、奥さんは大学院を休学し、大学で日本語を教えるためタイのアユタヤに滞在していた。

「僕が旅行でタイに遊びに行った時に子どもができて、わかったタイミングで結婚しようとなりました。1年子育てをした後、席を残していた広島大学の大学院を修了してもらいたいと思って、山口県から広島に戻ろうとなり、同級生が働いていたいまの会社に縁あって入ることになりました」

もともと日本語を教えるという立場で扱っていた梶原さんにとっては、書くということもそう遠くはなかったという。それから12年、広島経済を動かす大小様々な経営者に会ってきた。

「おじいちゃん、おばあちゃんの引率をしていた旅行会社時代から比べると、バリバリ仕事をしている経営者が中心なので、シンプルにおもしろい。アクが強い人もたくさんいます。本当に興味深いことばかりです。ただ広島はベンチャーの起業家が、まだまだ足りないと思っています。自分の地元でもある福岡は話を聞く限り行政の支援体制が整っていますが、広島はできていない部分が多いようです。地域としてはものづくりが強いので、そこを基盤にどうやって新しい事業の芽を広げていくかに注目しています。」

--近寄り難かったお父さんの作業着

今回アルバムにループケアするのは、かつて基礎工事に特化した建設会社を自ら始めた父親の作業着だ。表紙がシャツで裏表紙はパンツから作ることにしている。

「父は、僕が6歳頃に基礎工事を専門にする建設会社を自分で始め、現場監督をしていました。月3、4軒は仕事をしていたそうなので、年間40軒はやっていたようです。でも父は人を使うのが苦手で、組織いうより〝一人親方〟の会社でした。なので、母親が現場に入って、一緒に基礎を造っていました。自分の思い出は、華奢な母親がいつの間にか泥まみれで帰ってくるようになったことのほうが強くあります」

お父さんはザ・九州男児というような人で、いまだに目の前の料理を自分で取らないこともあるほどだそう。けんかっ早く、夫婦げんかをすれば母親がののしられるという風景を見てきた。そんなこともあって梶原さんは子どもの頃、父親の態度が嫌だったし、怖かった。そしてお母さんがかわいそうでしょうがなかったという。

「父親は飲んで帰ってくるけど、同じように仕事をしても母親は帰って僕らのご飯を作らないといけない。疲れているのがわかっていました。当時は、母親がご飯作ってくれるのは当然のことだと思って違和感はなかったですが、父親に対して腹立たしいという思いはありましたね。自分たちのことよりも、母親を守らないといけないという思いもあって、三人兄弟は誰も反抗期がなかったと思います」

--僕らから父への評価。父からの僕への評価。母から父への評価。

お父さんは独立して18年会社を続けた。お母さんはそのうち12年間、働いていたそうだ。お母さんは梶原さんが6歳のときに建設会社を手伝うようになり、18歳で家を出るまで続けていたということ。梶原さんも大学に行けたのも母親の頑張りがあったからだと思っている。

「旅行会社で働いていた時、家族旅行をしようと山口県の湯田温泉に行きました。宴会の席で母親が『お父さんが独立して働いてくれたから、あんたたちは大学を卒業できたんだよ』と最初に話し始めて、思わず涙が出ていました。自分も頑張っていたのに、自分じゃなく父親のことを話すなんて。それをここで言うかと。その時のことは強烈に印象に残っています」

結婚し、25歳で子どもができた。また今の仕事で様々な企業家、起業家に会い、独立して苦労している話もたくさん聞いてきた。そんな経験が父親という存在に対する視点を変えてくれた。

「結婚して気づいたのは自分自身が亭主関白だったということ。これには驚きました。父親のDNAを確実に継いでいます。父親を否定してしまったら、自分自体を否定してしまう気がします。今、自分が誇りを持って働きながら、結婚もし、子どもも3人授かった。自分なりに精いっぱい努力してきたけれど、ここまでこれたのは両親のおかげとしか言いようがない。父親を駄目な人と思っていた一方で、今は身を持っていい教育を受けさせてくれたと思っています。また、それを支える母親がいたから自分があるというアイデンティティーも感じています。」

機嫌がいい時も少なく、笑ってる記憶はあまりないという。働いている姿とお酒を飲んでいる姿、後は夫婦けんかをしているイメージしかないらしい。お父さんは尊敬の対象どころか、反面教師のような存在だった。そんな父親を母親は褒めていた。

--父親の話を聞いてみたい

「定年してから家でだらだらと過ごしており、将来ああはなりたくないとも思ってるけれど、今は嫌な父親ではないですよね。いろいろな話は聞きたいし、今まで何を考えてたのかすごく気になる。いまの僕と同じ30代後半で何を考えて独立しようと思ったのかとか聞いてみたい。最近は体を動かさないせいか、老いの進行が早いように感じています。父親の体が心配です。聞ける時に聞いておかなければという焦りがあります。」

梶原さんは今回ループケアで作るアルバムと合わせて、父親の自伝を書こうと計画している。母親も兄姉も、孫もこれから増えていくかもしれない家族にも読んでもらえるような、父親の生きてきた証を残したいと思っているのだ。

「たくさんケンカしていたのを知っていますが、ケンカには父親なりのケンカする理由があったわけですよね。毎回毎回の曲げられない思いと意地があったからケンカしてたわけで、その意地って何だったのかを聞いていくだけでも父の考えていたことがわかると思うんです。奥さん、つまり僕らの母にもなかなか言えなかったであろう経営者としての悩み、人を上手に使えないという現実。いろいろなストレスもあったと思います」

--見えない仕事を誇る

年40軒だとして18年で900軒の基礎をやってきたであろうお父さんの仕事。基礎工事は家が建てば見えなくなる。見えないけれど、梶原さんのお父さんの仕事はたくさん残っている。

コンクリートにまみれながら着ていたにしてはきれいな今回の作業着は、おそらく最後の時期に着てたものなのだろう。でも、着ては洗いを頻繁に繰り返していたことがわかる色の褪せ方をしている。

「僕らが普段着る服はこんなに褪せるまで着ないですよね。現場服しかこういう使い方しないから、この変化は父の仕事ぶりを物語りますよね。大変な仕事だったと思います。一番大事な基礎を作っているのに日の目も見ず、施主さんから褒められるわけでもないわけですから」

基礎がしっかりしてないと家は建たないにもかかわらず、住んでる人にとってそれは当然のものなのだ。

--会社の名付けに込めた思い

「東匠建設という名前だったんですが、なんで“東”にしたのか聞いたんです。地元の福岡だとしたら西で東のイメージが全然なかったので。そうしたら、日の出でありたかったと言ったんです。『日が昇る方、うまくいってほしかったから沈むほうより昇るほうがいいだろう。その方が晴れ晴れしい』って。誰に相談するでもなく全部自分で考えたらしいんですが、子どもからしたらそういう気の効いたことを考える人だと思ってなかったので驚きました。でも、もしかしたら日の目を浴びる仕事じゃないということがあったのかもしれないですね。地味な仕事だけど、それでもって」

梶原さんはお父さんの独立を、お父さんにとってベストの選択だったと考えている。人を雇っては辞められるということもたくさんあったかもしれないが、試行錯誤しながらもお母さんが協力してくれた。お母さんが嫌だと言ったら多分駄目だったんじゃないかとも。

「仕事も家庭も唯一一緒にやれた人は結局、母親だったってことなんですよね。だって子どもたちは、一緒に住めと言われたら今でも抵抗ありますもん。母親は尊敬します。その母が父には感謝してると話すわけですから、父親に対しての見る目も変わらざるを得ないですね。母親の話は駄目ですね、すぐ泣いてしまいます」

梶原さんは、父親の話をしていてもその背後にはいつも母親の姿がある。歳を重ね父親にもなった息子がこれから記すお父さんの人生の履歴書は、一体どんなものになるのだろうか。とても楽しみだ。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

PROFILE

PROFILE

梶原恭平

広島経済レポート取締役

1982年福岡生まれ
広島大学教育学部卒業後、山口県の旅行会社にて3年間勤務する。
その後、現職となる広島経済レポートに転職、広島県内の企業動向について幅広く取材し、広島経済の一役を担っている。
現在は、取締役として経営者視点で広島経済をレポート編集している。

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