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山田淳仁さん

東京時代に購入した
スウェット

20.02.18
HIROSHIMA

山田淳仁さんは1931年創業の老舗酒店、酒商山田の4代目。山田さんは引き継いだお店に大胆な変化を加えた。売上の大半を占めていたビールとタバコの取り扱いをやめ、日本のお酒に特化したのだ。そこにはどんな狙いがあったのか、いつの時代も夢を追う山田さんが辿ってきた道。

--地元宇品の良さを再発見した

「日本の文化が育んだ日本酒文化が、いま衰退しつつあります。日本酒蔵も厳しいし、焼酎蔵も先が見えないという中で、小さな蔵の経営が悪化しています。いっぽう販売する酒屋さんの業界も厳しく、後継者難や事業承継の問題もあり、あっちもこっちも大変です」

そう語る山田さんは1958年生まれで、社長を務める会社の酒商山田は、今年で創業89年になり、山田さんはその4代目にあたる。

「祖父が1931年に船舶酒食料品納入業をはじめ事業を拡大しましたが、1945年の原爆で亡くなりました。戦後は酒屋部門だけ祖母が引き継ぎ、町の小さな酒屋として頑張ってくれました。父は銀行員で、両親が結婚後は、祖母と母が酒屋を守りました。72年祖母が体調を崩し、父は銀行を辞めて家業に戻り、その後地域の酒屋として成長しました。88年父が倒れ、89年大手損害保険会社に勤めていた私が家業に帰りました。」

酒屋の息子として生まれ家業を継いだ山田さん。子供のころは、将来宇品を出ることを考えていたという。

「お店があった宇品という地域は少々荒っぽい土地柄で、ガラが悪かったんです。“酔(よい)たんぼ”という昼間から酔ってる人がいて、宇品は怖い印象がありました。そのため将来は違う場所に住みたいと思っていました。ところが学生時代、東京やアメリカで暮らしてみて、地元宇品の義理人情の厚さや人との絆の強さに魅力を感じるようになり、将来は広島に帰って酒屋を継ごうかなと思ってたんです」

ただ山田さんは大学を卒業後、すぐには家に入らず、お父さんが銀行員だったこともあり、一度外に出て好きなことをやりたいと、大手損害保険会社に就職し働き始めた。会社員生活は5年と決めていた。その5年を迎える時期に、東京本社に内示があったが、広島支店に転勤したいと無理な希望を出したのだ。

「広島在住の役員が私を引っ張ってくれたんです。まさにやりたい!と思っていた企業物件営業課が新設され、その部署に転勤命令が下ったんです。広島経済の中核となる企業が担当でした。仕事はやりがいがあり、配属された課の成績も上々で、活き活きと仕事に取り組んでいました。ところが、その部署に配属された1年後に父が倒れ、翌年30歳で家業に帰りました」

--営業マン時代との扱われ方の違い

家業に戻ってみると、私の将来の為にと考えて父が購入した土地の大きな借入金があり、経営は厳しいい状態だったという。夢を持って帰ってきた次期社長が思い描いた姿は遅々として進まず、現実と格闘する日々が続いた。

「描いた姿には思うようにいかず、借金もなかなか返せない状況もあり、両親に対する不平不満が溜まっていたときに、ある研修会に行ったんです。そこで聞いた話は、全ての源は自分自身の考え方によるということでした。それからは夢やビジョンを持ち、目の前の事を一所懸命にやっていこうという決心したんです。それから数年たってみると、描いていた姿に近づいていたんです」

営業マン時代はすぐに責任者と会えていたが、家業に帰ってみると、大きなホテルへ納品に行って挨拶しても、返事もしてもらえないことも珍しくなかった。大きな企業から地元の小さな酒屋へ。つらい思いもあったという。そんな山田さんを支えたのは夢と言葉だった。

「いろいろなことを乗り越えることができたのは、夢があったからだと思うんです。21歳の時、キング牧師の演説の中の『I Have a Dream』という言葉に感銘を受けました。その言葉自体はとても重く深い意味を持つ言葉ですが、落ち込んだ時にいつも「私には夢がある」ことを自分に言い聞かせていました。今この一瞬を精一杯取り組んでいれば、いつかは夢が叶うんだと。もうひとつ、心に留めていたのはサムエル・ウルマンの『青春』という詩でした。青春というのは人生のある年齢の時期をいうのではなく、心の様相をいうんだと。だから僕は20代から30代、60代まで、その年代ごとにその時々が青春だと思って生きてきました。今でもたくさん夢を持っているのはこの詩のお陰です」

酒屋を継いだ当時、アメリカ滞在の経験から、将来お酒を購入するのは、スーパーかコンビニになる。当時のヤマダ酒店のような一般酒販店は将来消えていく運命にある、と思っていた山田さん。

「アメリカに住んでいる時は、お酒は1~2本ならコンビニ、ケース単位だと大規模スーパーで買ってました。日本では今からは町の酒屋がなくなっていく、それではコンビニにするのかというと、祖父から引き継いだのれんがなくなります。ディスカウントストアは立地が良く、資本力が必要。安く仕入れ、安く大量に販売するディスカウントストアは、マーケットシェアをいかに取るかというビジネスモデルです。うちの店は立地も悪いし、資金もない。更に同業者のお客様を取ってしまうことは僕にはできない。」

新しい需要を創りだす、プラスアルファの付加価値を付けることはできないだろうかと考えた山田さんは、業界の流れからの将来像であるコンビニエンスとディスカウントストアの反対の酒屋の姿を考えた。酒屋に扱う商品を足していくのがコンビニエンスストア。その反対は、全ての酒類のお酒の酒類の販売でなく、1つの酒類に特化すること。ディスカウントストアの反対は、知られていない小さな蔵のお酒を、1つ1つストーリーを伝えながら適正価格で販売すること。1つの酒類に特化し、知られていない酒を「コト」と共に適正価格で販売する。業界の流れと反対の方向性がこれから目指す道なのではないかと考えた。

「お酒という『モノ』を売るのではなく、造り手のストーリーや思い、料理との相性やTPOに応じた提案などのソフトを売る。できるだけ安く売る・・ではなく適正価格で「コト」を売る。その酒屋のテーマとして“日本の酒”に決めたんです」

--売上の大半だった商品をやめるという決断

当時売上の9割以上を占めていたビールとタバコの取り扱いをやめ、小さな蔵の「日本の酒」へと舵を切っていった。

「どの酒類に特化するか?ワインも考えましたが、外国語に長けているわけでなく、お金も時間もない。ましてやワインは既に大きな商流の中ができている。でも日本のお酒だったら、小さな酒蔵は沢山あるし、日本語の言葉も通じる。」
「将来像を考えると日本酒のマーケットは縮小していくと思われます。市場が縮小するマーケットには、強いコンペティター(競争相手)は入ってきません。そこに勝機があると考え、日本酒と本格焼酎に特化するということに決めたんです」

売上の大半を占める商品を捨て、扱う商品を絞り込み、ストーリーを伝える。価格で勝負するのではなく、扱うお酒のトータルの価値で勝負をする。大胆な方向転換だった。

「事業の変革を決めた当時は、吟醸酒ブームが始まったタイミングでもあり、業界的にはまだ明るさがありました。ただ1973年から始まったダウントレンドは、これから更に加速度的に下がっていくと考えていました。人口構造が、ピラミッドから釣り鐘型になっていく中、海外からの輸入は更に増えていくことが予想され、日本酒は苦戦が予想されていました。 予想通り、1973年をピークに日本酒の販売本数は下がり続け、現在はピーク時の27%となりました。」

山田さんは、国内の日本酒消費量はまだまだ少なくなると予想している。

「だからこそ価値を上げていかなくちゃいけないし、需要をつくることが必要です。それが家業の戻ったときからのテーマなんです。」

山田さんにとって日本酒のおもしろさはどこにあるのだろう。

「おもしろさですか。日本酒は世界の3大醸造酒の1つですが、造り方が複雑で、味わいが精緻なことが魅力です。他の代表的な醸造酒はビールとワインがありますが、ワインは葡萄の糖分を発酵させる単発酵。ワインは、テロワールや気候、葡萄品種の違いや熟成による味わいの変化が魅力のお酒です。ビールは糖化の工程と発酵工程が別で単行複発酵の形態で醸されます。日本酒は並行複醗酵といって糖化と発酵が一つのタンクの中で同時に進んでいきます。お米という乾燥した穀物から、魅惑の液体が誕生することはとても魅力だと思います。ワインの基本構造は、酸と甘み、赤はタンニンの渋みが加わります。ビールは、苦みが基軸。日本酒は、甘・辛・酸・ニガ・渋の5味にうま味が加わります。その意味では、狭い範疇の味わいの中に複雑性を楽しむお酒なんです」

--ストレスなし

今回ループケアする服は34年前のスウェット。前職で活躍していた時に購入した。それ以降の波乱万丈の人生を共にしてきたスウェットだ。

「27歳の頃に東京の青山にあるスキーショップ・ジローで買ったものです。昔はよく着ていましたが、最近では年に数回寒い時に着ているくらいです。20代の頃から体重はほとんど変わっていないので、着れるから捨てなかったということもありますね」

酒屋の主人ともなれば飲みの席も多く、恰幅がよくなっていきそうなものだが、そこは自分でコントロールしているそう。

「体重が増えてくると食事制限をします。あと運動。今週は自転車で元宇品や出島を走っていました。やっぱり健康でないと仕事はできませんから。好きなんでしょうね、お酒が。趣味はなくて、趣味は言われると酒屋の仕事になるんじゃないかな(笑)」

趣味が酒屋の経営。お酒を愛する山田さんにとって、ストレス発散のためにお酒を飲むということはない。というよりも、ストレスがないらしい。すごいことだ。

「ストレスがないんです。仕事も、資料を作るのも好きなんです。講演やセミナーでお話しをする機会もあるのですが、パワーポイントを作るのも楽しい。でも過去にお話しした内容やプレゼン資料を見ると、今だと恥ずかしくなる内容です。そう、2017年から2019年の2年間、県立広島大学大学院経営管理研究科に通っていたんです。僕が最年長でしたが、若い同級生からは「山田さんは変わってる!」と言われたりしましたが、年齢が大きく違う同級生といろいろな事を語り合い、また素晴らしい先生方とも巡り合え、とても楽しい2年間でした(笑)」

--倒れたその日に忘年会

「父が倒れた時の病名は拡張型心筋症。心臓の癌とも言われ手術ができない病気で、早ければ半年しかもたないと言われました。私が戻った安心感もあったのかもしれませんが、劇的に効く薬が見つかり、結果的に18年もの間、命を長らえることができました。父が亡くなったのは2005年。家業に戻ったとき、私は3つ目標を立てましたが、最後の1つだった法人化を2004年に行い1年が経過した時でした。2005年9月末日、今期の業績予想の報告と5年後、10年後の酒商山田のビジョンを父に語りました。父は笑みを浮かべて「ほ~!」と聞いてくれました。父が倒れたのは、その1週間後。父と税理士さんを交えて食事会をする約束をした日の朝倒れたのです。そしてその翌日に他界。経営が軌道に乗り、今期の報告と将来の会社の姿を語ったことで安心したのではないかと思います。父が亡くなったことはとても悲しいことでしたが、安心してあの世に送り出せたことに、父も喜んでくれたと思います」

事業を継承し、発展させた姿を見てお父さんは逝った。亡くなるお父さんを見送った山田さんは、緊張の糸が切れながらもその後の対応や忙しくなっていく仕事の波の中で、倒れてしまう。

「父の葬儀にはたくさんの方にお越しいただきました。自宅での通夜とお寺での通夜・本葬でご参列頂いた方が1000人にもなりました。父から引き継いだ地域社会に対するお世話が加わり、また事業も11月から12月に入り更に忙しくなりました。そんな中、12月上旬に会社の事務所で倒れたのです。人生初の救急車でした。救急車の中では手足が痺れてきたことで、自分の死が頭をよぎりました。病院の受け入れ先を探すのに30分間待機している間、今までの人生を振ることができました。意外にも過去の自分の人生への後悔の念は沸いてこなかったんです。その後病院での治療を受けましたが、手足の痺れは過呼吸からのもの。倒れたのは過労との診断でした。これは儲けた!今日からは2度目の人生だと考えました。」

目まぐるしく過ぎていく日々。いくら仕事が好きと言っても、ストレスはないと言っても、見えない疲れは少しずつ溜まっていた。驚いたことに、退院した山田さんは、なんとそのまま社内の忘年会に出席している。

「注射と点滴をしてもらいました。病院からは家に戻ったら安静にして下さいとのことでしたが、その日が社内の忘年会だったので、病院から帰ってきてすぐ出席しました。若い社員さんとカラオケに行こうという約束していたので、忘年会後、夜中の2時までカラオケに付き合いました。外に出たら雪が20センチも積もっていました。社員さん全員をタクシーに乗せ帰宅させ、自分はタクシーが捕まらない為、雪の中を歩いて帰りました。忘年会は土曜日で、家に着いたのは日曜日の午前3時。翌日の月曜日また事務所で倒れ、今度は1週間病院に缶詰になりました」

倒れても仕方ないのでは……と思わず言ってしまいそうになるが、先代を亡くした社長として果たすべき役割を全うするのだという強い意志がそこにあった。

「1週間入院と言われたんですが、2日目からは時間を見て抜け出して帰っていました(笑)。酒屋が心配だったのだと思います。でもその頃から、肩の力抜けたんでしょうか。私がいなくても社員さんが代わりやってくれるようになっていたんです。今は私がいなくてもお店は回るようになりました。ありがたいと思います。私には子どもが3人おり、長男と2人の娘がいます。その長男が3年前に帰ってきてくれました。彼は今31歳ですが、これからも私は全力で走りながら、近い将来に仕事に対する情熱と経営のバトンタッチをしようと思っています」

がんばってきた日々も落ち着く未来が見えてきたが、その日が来るまで全力で走り抜けるつもりらしい。世代交代しても、きっと山田さんは違う分野で全力疾走しているはずだ。




--山田淳仁さんのクッションバッグが完成しました

山田淳仁さんのスウェットをループケアし、クッションバッグに仕立て直しました。

--生まれ変わったクッションバッグを手にした山田さんからうれしい感想が届きました

27歳の時に東京のスキーロケットジローで購入したスウェット。
20代後半から30代にかけてよく着た愛着のあるスウェットをお願いしました。
そのスウェットがクッションバッグとなって戻ってきました。
思い出のスウェットと生まれ変わったスウェット。
これからはいつもソファの横に。出かける時にも使えそうです。



聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

PROFILE

PROFILE

山田淳仁

株式会社酒商山田 代表取締役

平成元年稼業の酒屋を承継。日本の酒の魅力に引き込まれ「日本」をテーマとした酒屋に取り組んできた。
蔵元やお客様のパイプ役となり、日本の酒のすばらしさを広めていくことをライフワークとしている。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

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