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酒迎亮さん

告った日に着ていた
アーミーシャツ

21.12.08
HIROSHIMA

北広島に古民家でヴィーガンのドーナッツを売っているお店がある。「さんわ堂」という名のそのドーナッツ屋を営むのが、酒迎亮さんと三和さん夫妻だ。高校時代に知り合い、結婚して10年。ループケアするシャツは、酒迎さんが着倒した服であり、ふたりにとって記念すべき日に着ていた服でもある。ハードコア経由レゲエ着な酒迎さんとドーナッツの話。

--古民家でドーナッツ屋を始める

酒迎亮さんは1982年、山口県生まれ。2歳で広島県広島市に引っ越し、その後広島市内で育った。ドーナッツ屋を始めて6年目。現在の古民家に店を構えてもうすぐ2年になる。道の駅やイベント、マルシェへの出店をメインにしていたところから、住まい兼店舗のこの古民家に出会った。

「前の家を出なくちゃいけなくなって、30軒ぐらい古民家を探して見つけたんです。古民家だったら自分でもいじれるし、値段も安い。納屋とか畑もあって場所自体の生活力が高い。あと大事だったのは水がきれいなこと。」

ドーナッツ屋ができる場所かつ子どもが保育園や小学校に通える場所という条件で探したが、決して簡単ではなかった。

「夫婦ふたりなら食っていければくらいでよかったけど、子どもが二人になり、店をステップアップさせようと思って。ちゃんと生き方を整えないといけないと思って、ドーナッツだけじゃなくカフェにしようかとか、いろいろ考えてたんです。最初はそれで場所を探してたんですけど、かみさんが『そういうことじゃないじゃろ。ドーナッツは最終的には生業だけど、最悪それをせんでもいい場所のほうが絶対いいんじゃろ』って。というのも、コロナ禍での家探しと引っ越しで、ロックダウンとかになったらそもそもドーナッツ屋もわからない。
だから一回、店のことを忘れて、どこで生きたいかを考えよう。どういう生活をしてどういう生き方をしたいか考えようと思ったときに、この場所だったんです」

水もきれいで、畑も田んぼもある。仕事がすべて駄目だったら「きこりでもするよ」と言っていたという。北広島のこのエリアには、都市部や他地域からの移住者が多い。以前出ていただいた美容室をやっている峠夫妻の家もすぐ近くにある。

「共通の友だちもいたりして、最終的には呼ばれてたんだと思って、最後まで妥協せず選んでよかったと思います。元々僕らも広島市内に住んでいて、僕が勝手に田舎暮らししたいと言ったから、まずは田舎とはいえ知ってる範囲の田舎がいいと思って妻の親戚の家を借りました。僕が田舎と言ったら、すごい山奥に連れていかれると思ってたとみたいなので。そこでドーナッツ屋を始めたんです。市内を出るなら自分たちで生きていけるように生業をつくろうと。」

--ドーナッツは幸せで安心

田舎に引っ越してすぐは養鶏所で仕事を得て、忙しいながらも養鶏の仕事は好きだったという酒迎さん。そんな中、三和さんが妊娠。市内にいる頃と変わらない忙しさで働く夫に、今の仕事を一旦辞めて違う仕事を考えようと言われた。

「かみさんは料理作ったりすることの方が好きなタイプ。僕はゆるく、怒られんかったらいいかなという感じのタイプなんですけど、子どもが生まれたら、かみさんは何もできなくなるから、何かやらなきゃと自分ができることを考えたら、小さい頃、自分の母ちゃんと一緒にドーナッツ作りよったなと思って。あと、海外をフラフラしていたんですけど、どこに行っても絶対ドーナッツ屋はあるんですよ。ドーナッツって食べたら幸福感がすごい。安心感もある。そういうのが作れたらいいなって」

自身鶏肉を食べる以外はベジタリアンである酒迎さんは、チェーン店のドーナッツ屋さんやコンビニのドーナッツが食べられなかった。ドーナッツが好きなのに、好きなときに食べられない。

「だったら自分で好きなものをつくろう。それが一番楽しいと思って。そういう考えや人がいることも、お客さんとの会話一つで分かってもらえたらハッピーだなと。これはドーナッツ最高だなって」

ドーナッツが自分の生き方と上手に重なりあった瞬間だった。

--ヴィーガンドーナッツはいい隙間産業なんじゃないか

しかし、作ったことのないドーナッツがそんなに簡単にうまくできるわけもない。

「いろんな所の材料をネットで取り寄せ、失敗して、ずっと作ってました。ドーナッツには、基本卵とバターと牛乳が必要。ヴィーガンでそれらを使わないからどうしても成形が難しかった。」

とはいえ、延々と試作をし続けていては生活費がなくなってしまう。三和さんの出産をはさみながら約半年作り続けた。

「ある程度できた段階で、友だちに食べてもらい、イベントとかに出店させてもらって実際に売ってみたらすぐ売れたんです。ヴィーガンドーナッツってすごい隙間産業なんじゃないかって。東日本大震災後で西に移住してきた人も多くて、健康志向だったり、生活意識の高い人が多かったことも幸いしたのかもしれません。でも別に偏ったものを作ろうとは思ってなかったんです。ただ動物性のものを入れない選択をしただけであって、おいしくないと意味はないし、おいしく食べてもらわないことにはしょうがない。ヴィーガン推しで売り出したかったわけでもないんですよ。」

自分が食べられるものを作ろうと思ったら、そうなっただけだった。

「卵アレルギーとか牛乳アレルギーのお子さんのためにというお客さんも多かった。音楽のイベントだと外国人のヴィーガンの人が来て、ここで食べられると思わなかった!って。そういうのもすごいうれしくて、励みになりました。」

ヴィーガンという意味でも時代の先にいるように見えるかもしれないが、素朴であるという意味では戻っているような部分もあるのかもしれない。

「最初からおばあちゃんとかお母さんが作ってくれたドーナッツが頭にありました。地域的なこともありますけど、お客さんでもおじいちゃん、おばあちゃんが多いんですよ。まだヴィーガンドーナッツであることをよくわかってないお客さんもいるかもしれません。僕も必要以上に言わないから」

--最終的には自給自足の生活がしたいと思っていた

酒迎さんの帽子の中には長いドレッドヘアーが仕舞われている。もちろんレゲエ由来だ。

「10代の頃はずっとハードコアやパンクが好きだったんです。中学生のときからずっとモヒカンで、バンドもしてました。そこら辺のコンビニに行くのも、カッコつけて鋲の革ジャン着て行ってましたから。で、ある日、ライブの打ち上げ後の帰りに乗った先輩の車で、ボブ・マーリーのCDが流れてたんです。何だこれみたいに感動してしまって。これまでもレゲエを聴いたことはあったんですけど、こんなにすっと入ることはなかった。僕はハードコア好きな硬派な人間だったからレゲエの陽気さが苦手で。でもボブ・マーリーを聴いて歌詞も調べるようになったらハマってしまった。対象もわからないまま戦っていた自分が、ただ威張ってただけ、とんがってただけだみたいに思えた。自分の持ってる優しさを悟られたくなくて、常に気張って、来るなら来いみたいな感じで思い過ぎてたんだと思うんすよね。ボブ・マーリーの歌詞とラスタファリアニズムを知った時点で、楽に生きていいんだと肩の荷が下りて、そこから20年です」

中学校でモヒカンと聞くと、なかなかヤンチャな子どもだったのではと想像してしまう。世代的にはいわゆるヤンキー最後の世代くらい。どんな子どもだったのだろうか。

「普通の親御さんから見たらグレていたかもしれませんけど、モヒカンでもおかんと一緒にカート押してスーパーで買い物してましたからね。グレてはいない。反抗はしてるけど。親に対しては別に何も文句はなかった。変わってるねって言われてました、周りからは。」

先生からはどういう生徒に見えていたのか。

「中学校はほぼ行ってなかったです。勉強は全部、本でした。はまりたくなかったんでしょうね。小学校は普通に行っていましたけど、持病があったので一度休むと1週間以上休むとかよくありました。最初だけ行っていた中学校も、ちょっと病気して休んだら勉強もわからなくなるし、入ってたサッカー部もレギュラーになれない。」

学校ではめったに来ない人をずっと待ってくれる仕組みはたしかにあまりない。特に部活では能力だけ評価されるわけではない。常に参加し、部に貢献することも求められがちだ。

「そうしたシステム的なものがおもろないみたいになってしまったんだと思うんです。親も初めは行けと言って心配してましたけど、姉ちゃんが『そんな子いっぱいおるよ』みたいに言ってくれて。だから好きなことしなさいみたいな。というのも引きこもりだったわけじゃないから、外でスケボーしたり音楽をしたりすればいいって。でも学校に来ないから勉強ができないとなるのが嫌だったから、常に好きな本は読んでましたね。音楽、パンクが好きだったから、関連する民俗学とか宗教学とか、そういうのを読んでました」

高校になってからは学校にも行った。卒業後は鋲ジャンを作るのがうまいからいいのではないかと服飾の専門学校へ通い、お姉ちゃんが働いていたアパレル会社の社長に気に入られて働き始めた。でも酒迎さんには中学2年の頃から、憧れていた生活があった。

「最終的には自給自足をしたいと思っていたんです。中学校2年生のときにNHKのドキュメンタリー大賞で、山奥の里山で奥さんはパンを焼いてお金を稼ぎ、旦那さんは自然農をしながら、子ども育てている家族のドキュメンタリーを見て、めっちゃいいな、この生き方と。社会から距離を取って、自分たちで生きている。それがずっと引っ掛かっていて、どこか目標としてあったんだと思います」

ちなみに酒迎さんと三和さんの出会いは20年以上前、16歳の時。知り合った当初はそれほど仲がいいわけではなかった。高校時代の音楽仲間が同じ中学出身だったことがきっかけだった。「女の子より男の子と遊ぶタイプだったので。ライブとかイベントとかによくいたんです。私はハードコアじゃなくて、ヒップホップからレゲエでしたけど」と三和さん。

--告った日に着ていた服

今回ループケアする服は、15年近く前から着ているカーキのシャツ。ファッションも体型もあまり変わらず、服を捨てない酒迎さん。いまだに高校の頃から着ている服もあるという。

「古着で買ったんですけど、最初は結構きれいでした。着込んでこの状態です。胸のワッペンは僕が貼りました。アフリカの解放の旗です。かなり着まくっていて、着過ぎてかなりダメージになってしまったけど捨てれなくて。ここしばらくずっと仕舞われていたからどうしようかなと思って、ループケアをするとなって考えたら、僕もかみさんもこの服のことを考えたてたんです。ふたりして『あいつしかおらんじゃろ』みたいな(笑)」

久しぶりにあいつの出番が来た。

「こういうシャツって、昼は温かいけど夜寒い時とかに持っていこうと思って、とりいそぎ着なくてもバッグに突っ込んでおいたりするじゃないですか。だからそういう意味ではフル稼働していて、海外放浪とか野外活動的なことも多かったので、破れたりしたんでしょうね」

「着てる写真が2枚しかなくて」と三和さんが持ってきたくれた写真は、三和さんとふたりで写っているもの。

(酒迎さん)「ちょっと嫌だな。これ付き合った日じゃけえ。恥ずかしい」
(三和さん)「付き合った日にオーストラリアに行ったんですよ。14年前ぐらいよね。付き合った日に、これから旅に行くからじゃあねってバイバイした(笑)」

付き合った日にオーストラリアへバックパックの旅に出る。一体どんなシチュエーションなのだろう。

「そもそも前から旅に行こうと思っていたんです。お金を貯めたりずっとその準備をしていて、その最中に再開して仲良くなったんです。旅に出てしばらく帰ってこないつもりだったのに、再会してしまってどうしようと思いながらも準備は続けて、よく一緒に遊んでもいたんですよ。でも付き合ってはいなかったけど、どうしようと思って。一緒におりたいと思ったから、出発する前に帰ってくるまでは形だけになっちゃうけど付き合おうと伝えたんです。そしたら自分も帰ってくる理由ができると思って」

付き合った日の写真が残っていて、今回のループケアする服を着ている。そしてその服は新しいものに生まれ変わり。これからは子どもたちがそのエピソードとともに使うようになっていくのかもしれない。

「意外と彼のほうが毎回、先を見てるタイプなんです。私は勢いだけで言って、彼のほうが先を見てることが多い。彼は黙って私が思うようにやってくれてるけど、最終的には彼が言っていたようになってるみたいなところはありますね。それが結果としていい方向になってるんです」と三和さんは。




--酒迎亮さんのクッションバッグが完成しました

酒迎亮さんのアーミーシャツをループケアし、クッションバッグに仕立て直しました。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

PROFILE

PROFILE

酒迎亮

さんわ堂店主

82年 山口生まれ
専門学校を卒業後、アパレル関係の仕事に就き、その後オーストラリアを旅し帰国。
結婚と妻の妊娠を機に、子どものころから思い描いた自給自足の暮らしを求めて北広島の地に移り住み、ヴィーガンドーナッツ専門の小さなお店を本格始動する。
19歳の時に出会ったレゲエをこよなく愛している。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

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