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藤江潤士さん

サラリーマン時代の
オーダースーツ

18.05.08
HIROSHIMA

1979年生まれの藤江潤士さんは、中学校時代の友人とふたりで路上ミュージシャンとして広島市内で大きな人気を得て、その後組んだ「瑠璃」というバンドでは、某オーディション番組でグランプリを受賞しCDデビューも果たしている。
スーツとは無縁に思えるミュージシャンがループケアするスーツにはどんな人生が含まれているのだろうか。

--二人ユニット→三人バンド→シンガーソングライター

藤江さんは路上ミュージシャン時代やバンド時代、広島では名の知れた存在でもあった。いまはひとりのシンガーソングライターとして活動する藤江さんだが、一時期音楽から距離を置き過ごしていた日々がある。

「2008年に、音楽はそろそろ趣味にしようと思ってバイト生活をやめて、28歳で初めて就職したんです。就職して、以前から知り合いだった今の奥さんと再会して付き合うようになり結婚することに。しばらくして子どもができたら趣味での活動も全然できなくなって、年に2回くらいしかライブができない年もあった。それはそれで良かったんですけどね。08年から13年まで自動販売機の管理の仕事を続けて、13年6月に保険外交員に転職。そこから営業職に変わって今回ループケアしてもらうスーツを着るようになったんです。営業なので、人付き合いが増えていろいろな出会いがありました。その頃またちょっと歌いたいなと思っていた矢先、この「カフェ ド パブロ」のマスターがここで歌ってもいいよと言ってくれて、転職した月から毎月ここで歌わせてもらうことになったんです。」

--X JAPANへと結実するピアノとギター

広島で生まれ育ち、8歳から母親にうまくのせられてピアノを始め、中学に入ると吹奏楽部でチューバ担当に。その2月からまたも母に導かれるようにガットギターを持ち出して弾き出した。

「最初はピアノをやめたかったんですけど、母がやめさせてくれなかったんですよ。吹奏楽部に入るなら、やめてもいいよと言われて吹奏楽部に。トランペットかサックス希望だったのに、体格が良かったもんでチューバに任命されて渋々やっていました。同じ頃、ギターに惹かれてやり始めました。結果、ピアノもいまに活きてるし、チューバで低音の大事さにも気付いたし、やってきたことは無駄になってないんですよね。」

無駄でなかったというのは、藤江さんがギターを始めてから好きになったX JAPANがピアノを含む楽曲をやっていたという意味だ。その後、高校時代に楽器のできる友人を寄せ集めたバンドを組み、オリジナルをやっているわけでもないのに何の根拠もなくプロにはなるんだろうなと考えていたそうだ。

「高校受験もしない!とか言ってたんですよ。高校行っても意味がないって。そういうちょっと痛いやつだったんです。」

音楽の専門学校に入るも辞めてしまった藤江さん。ギタリストからボーカリストへの転身は、友人を想っての行動からだった。

「中学校の同級生が、大学進学後すぐ帰ってきたんです。大学を辞め、付き合っていた彼女にも振られた彼は突然、『大阪に行って路上ミュージシャンになる!』と言いだしたんです。歌もギターもできないくせにね(笑)。それなら『俺が隣で弾きながらコーラスするから、広島でやってみて、いけそうだったら大阪行けば?』と説得して、そこから僕も歌うようになったんです。」

コーラスのつもりが、だんだんとメロディーを歌うように。相方の失恋や背中を押してくれるような歌詞に、藤江さんがキャッチーなメロディーをつけた曲が共感を呼び広島ではすごい人気になっていった。毎週金曜日に行なっていた路上ライブでは毎回100人近く集まり、アイドルさながらの人気。2000年から3年間その活動は続いた。

「音楽で食べていけるんじゃないか?と本気で思いましたね。オリジナルを作りだしたことで、プロになることへのイメージが明確になった。」

--自分で自分の歌を歌いたい

ところが2003年に二人は解散する。

「僕が歌うようになって相方との間に溝が生じてきたんです。音楽を伝えたい僕に対して、相方は今までバレーボール一筋で、音楽を!というかメッセージを伝えるシンガーだったんですね。さらに、彼の失恋ソングが共感を得まくっていたわけなんですが、そもそも僕が恋愛において失恋を引きずる精神が全くなくて。だから『なぜこんなに受けるんだろう?』と不思議に思っていました。自分が思うように音楽を作っていきたい!と相方と話し合いをして解散することになって。そして『瑠璃』を結成したんです。」

ところが路上時代の人気はまったくついてこなかった。むしろ解散の原因となった藤江さんをよく思わない声も多数寄せられたとのこと。既存のファンは1割もいなかったと思うと藤江さん。でもそこからじわじわと学園祭とかに呼ばれるようになり、04年にはあるバンドオーディションで特別賞をもらい広島のレーベルからCDをリリース。全国ツアーも行った。05年にテレビ番組のオーディションでグランプリを受賞し、デビュー曲をつくるべく東京と広島を往復する日々がはじまる。ところが、レーベル側の思惑と藤江さんの考えはなかなかうまく噛み合わない。

「既存曲で、『これが絶対売れるから4枚目のシングルとして出す。だからまずはデビュー曲を含む3曲を書け』と言われて、当時の流行りから失恋ソングを求められて、やっぱり失恋ソングなのかと…。で、やはり僕は全く書けなかった。」

ようやくリリースできたのが2007年。1000枚売ったら2枚目を出すという話が、数千枚を売っても進まなかった。曲をデータで送り続け、ボツと言われる日々。藤江さんはこのままでは音楽が嫌いになってしまうことを恐れ、揉めに揉めるが事務所との関わりを断ち切る事となった。好きなことを仕事にすると上手くいかないと悟ってしまい『音楽は趣味でやろう』と、最初に語ってくれた就職へ進んでいく。

--趣味でいいと思った音楽を気づけばやめられなかった

「音楽しかやってこなかったから自分には音楽しかなかった。じゃあこれを嫌いになってしまったら、僕には何もなくなってしまう。それならもう趣味として、地元でちょろちょろと演奏することを大切にして、もうプロを目指すのは諦めようと思って就職したんです。」

不規則だった生活は一変。毎日決められた仕事をこなすことに気持ちよさすら感じていたという。効率もいいし、ちゃんとお給料ももらえて合間に音楽も作れる。しかし結婚、出産、育児という流れの中で音楽との距離は開いていく。そして2013年、33歳の転職を機に音楽を再開することになる。

「結婚して3~4年は本当に家と仕事の往復だった。それでも十分幸せでした。でも転職して、時間を作ることができてライブをはじめたら色んなところから声をかけてもらえるようになったんです。そんな日々を過ごしていたら、2015年、仕事の打ち合わせに行った際に、僕の活動を知っていてくれた人から、TSSという広島のテレビ局の開局40周年のテーマソングの依頼があって、そのお仕事がきっかけで活動の幅が一気に広がりました。これまでの音楽家のイメージは、メジャーデビュー!やCDリリース!みたいなわかりやすいものしかなかったんですけど、ライブ活動や企業への楽曲提供、楽器を教えることなどを仕事にする音楽のプロもあるんだと改めて気づいたんです。一度社会に出たことによって大人の考えもできるようになり、今なら当時揉めたレーベルの人たちの言ってることもわかる事もある。遠回りしたけど、今の僕だったら音楽を仕事にできるんじゃないか?と思って独立したのが2016年の3月でした。」

自動販売機の仕事から営業の仕事に切り替えた時、奥さんから強い反対があったという。ところが、サラリーマン生活を辞め、音楽の仕事をしていくことに関してはそれほど反発がなかったそうだ。不思議に思い、聞いてみるとなるほどという想いと奥さんの愛情も感じられた。

「自販機の仕事時代は規則正しい生活で、育児や家事の戦力になっていたわけです。それが保険の営業は時間が不規則になるから奥さんの負担が増える。そういう不安もあったんだと思う。でも、それを押し切って転職させてもらったクッションがあったから、音楽の仕事への独立はそれほどではなかったのかな?と。奥さんは、僕が音楽をやることに関しては、なぜか信頼してくれてるんですよ。他は全然信頼してくれないんですけど(笑)、そこだけは変な信頼がある。むしろ音楽なら!と応援してくれました。」

--自分の世界観なんてエゴ

仕事は、ライブ活動以外にブライダルのオリジナルソング制作などもある。新郎新婦どちらかからのオファーで想いを聞いたり、手紙を書いてもらったりして入れたい言葉や思い出を聞いてオリジナルソングを作って当日サプライズで歌うという内容だ。それ以外にもCMの音楽や企業のテーマソング制作、ピアノやギターの個人レッスンもある。そうした依頼されて歌を歌う機会が増えてきたことで、藤江さんのなかで歌への考え方は変わってきた。

「もうメジャーとかそういうことには未練はないですね。自分の考えとか自分の世界観ってとってもエゴな気がして。もし僕のCDが売れていて求められている所に歌いに行くんなら全然いいんですけど、無理やり勧誘するようにライブあるから来てくれ!って言い続けることに違和感が生じてきたんです。音楽は自己主張したら駄目だなと最近では思ってきて、例えば40代から60代の人が働く会社のホームパーティーがありますと、こういう曲が好きな人たちがいるので演奏してくださいと言われたら、それを演奏しに行くわけです。やっぱりお客さんが望んでいる音楽をやるからこそ喜んでもらえるんですよね。その方がプロだなと思えてきた。仕事でオリジナルを作ることはありますけど、自分用のオリジナルはもう最近作ってないです。もう伝えたい思いがないのかもしれない。カバーや仕事で音楽をしているほうが楽しいというか、今の自分のスタンスに合っているんだと思います。『俺の想いを聞いてくれ!』がないんですよ。自分で歌っていて覚めてしまう。」

--巨神兵体型に合わせてオーダーしたスーツ

営業でいろいろな場面で歌うことが増えて結婚式やホテルのような場所ではスーツを着て歌うこともある。今回ループケアするスーツは保険の仕事を始めた時、オーダーで仕立てたスーツだ。

「僕、変な体型なんです。背が高くて、なんか巨神兵みたいな。もしくはジャイアント馬場みたいな。手が長いんです。営業は人と会うわけで、これはちゃんと作ったほうがいいなと思ってオーダーで自分仕様に作った一着なんです。」

変わった体型というが、歳を重ねることで体重が増えたことも影響し、最初のスーツはきつくて着れなくなってしまった。バンドマンの頃から比べると20キロ近く増えたそうだ。ダイエットはしないのか聞くと。

「体重を減らそうとすると体調壊すんですよ。今がまさにそうで。ちょっと体重を気にして食事を制限するとすぐ体調が悪くなる。糖分が必要なんでしょうね、糖分が。」

スーツはアルバムになるが、どんな写真が入るのだろうか。音楽を始めるきっかけをつくってくれた母親や音楽の道を応援してくれている家族か。

「いまの音楽仕事を始めて、母親が友だちを連れて来てくれたことがあって、その友達がすごく喜んでくれたらしくて、『いい仕事してるわね』と褒めてくれたんです。うれしかったですね。デビュー当時は恥ずかしかったのと、良いと絶対に思ってくれないだろうなと勝手に思っていて、母にはデビューシングルも渡してないかもしれません。音楽は母親の影響で始めたのに。かといって、母もこれまでは『観に行くわ』みたいなこともなかったんです。やらすんじゃなかったって思ってたかもしれませんね。お金もかかるし、こんなに僕がのめり込んでやると多分思ってなかっただろうし。プロになるとか訳の分からんこと言い出してましたしね(笑)。でも、やっと見せられるようなものをやり始められたのかなと思って、がんばっていきたいですね。」




--藤江潤士さんのアルバムが完成しました

藤江潤士さんのサラリーマン時代のオーダースーツをループケアし、アルバムに仕立て直しました。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

PROFILE

PROFILE

藤江潤士

シンガーソングライター

1979年広島生まれ。 
幼少期からクラシックピアノを学び、中学生でギターに出会う。その後、ボーカルとしての活動をメインに音楽家として数々の作品を残す。その柔らかく透明感のある声と、心の琴線に触れるメロディセンスが評価を受け、数々のCMに楽曲が起用される。その唯一無二の聴くものを魅了する歌声は圧巻。
全国のライブフロアのみならず、YOUTUBEなどのインターネットソースでも注目を集めており、どの世代からも大きな反響を得ている。
アーティストへの楽曲提供や企業への楽曲提供などの制作依頼も多数来ており、音楽クリエーターとしても注目されつつある。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

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