嵜本晋輔さん
と
ガンバ大阪3年目の
ユニフォーム
18.04.18
TOKYO
元Jリーガーという肩書が霞むほど、嵜本晋輔さんの実業家としての活躍は目覚ましい。ブランド品の買取やBtoBのブランド品オークションなど、家族経営のリサイクル店から独立、株式会社SOUを立ち上げ大きな飛躍を遂げている。しかし、元々経営は素人の元プロサッカー選手。嵜本さんがサッカーから学び、現実に立ち向かったこととは一体なんだったのか。またこれから思い描くサッカーの夢とはどんなものなのだろうか。
--プロになれるとは
嵜本晋輔さんは1982年生まれ。93年に始まったJリーグにサッカー少年として熱い視線を送った嵜本少年は、2001年にスカウトを受け、J1のガンバ大阪に入団。夢だったプロサッカー選手になった。プロに憧れてはいたものの嵜本さん自身、スカウトの目に留まることは予想していなかった。
「卒業アルバムには、プロサッカー選手になりたいと書いていたので、ずっと追いかけ続けていた夢ではありました。ただ高校でのサッカーは、プロになるというより全国大会に出るくらいまでしか目標にしていなくて、いつかプロに入れたらっていう感じでした。だからまさかって感じはありました。高1の時、一つ上にすごく有名な選手がいて、その選手をスカウトしに来た方の目にたまたま僕が留まったみたいで、そこから追いかけていただいたんです。」
--中途半端に点を取らなくてよかった
今回アルバムにループケアするのは、ガンバ大阪3年目、最後の年のユニフォーム。サプライヤーがルコックからアンブロに変わった3年目のデザインが好きだった。サッカー少年の夢がかなったプロ生活だったが、プロの世界はそう甘くはなかった。
「ブロになって、レギュラーを取って、日本代表に選ばれるみたいな夢はありましたけど、そんな簡単なことじゃないなっていうのは、入ってすぐにわかりました。むしろスタメンを張るくらいしか考えられるようなレベルじゃなかった。見るのとやるのは、えらい違った。過去Jリーグの試合を何試合も観て、自分でもやれるという印象があっただけに、いざやってみて全然レベルが違うのに驚きました。」
観ていて感じていたこと、やってみてわかったことの違いはどこにあったのだろうか。
「足元の技術や体格はもちろん、全てにおいて高校サッカーとはレベルが違いました。高校時代は、余裕を持ってプレーできていたから自分のやりたいことができていたんですが、プロは全てのレベルが高い中で余裕なんて持てなくて、結果が出なくて当然でした。」
悔しかった過去を思い出すというより、自分の出来事を冷静に振り返るように話をしてくれていた。結果の出なかった嵜本さんは、レギュラーに定着できないまま、3年目が終了した時点で戦力外通告を受ける。
「チャンスでも決めるべきところを決めきれず、勝負弱い部分がありました。だから今考えてみると中途半端に点を取っていなくてよかったなって逆に思うんです。」
点を取らなくてよかったとは、選手としては理解しがたい言葉だ。
「もしそこでわずかな結果を出していたら、ガンバでもう1年、2年と出場機会に恵まれなかったとしても、まだ自分は通用するのではないか、とあきらめきれずにプロ生活を送っていたかもしれません。だから本当に外してよかったと思うんですよ。僕、結構ポジティブなので、今こうしていられるのは、全てこれまでの何かが関係していると思っています。あのときシュートを外させてくれたのは神様のおかげで、戦力外通告をもらえたのも神様のおかげ。だからこの業界に1年早く入れたんだ、3年で早くプロ生活に見切りをつけられて良かったって。」
なんとポジティブというか、あっさりとした決別。普通はそう簡単に割り切れるものではないのではないかと思うのだが、嵜本さんは今に通ずる経営的な目線がすでにあったようだ。
「もう来季契約しませんと言われて、自分で次のチームを探してくださいって言われるんですが、今考えるとそれが当たり前だよなって。2年半の機会を活かせなかったのは自分で、それをドライに判断するのは経営者にとって当たり前なんですよね。」
「どん底を見た経験は本当に今もすごく生きていて、現役時代を振り返ると、遊びたい!とかプロとして全然なってなかったシーンがすごく多かった。だからこそ次やることに関しては後悔しない生き方をして、自分に甘えず、いつ首になるか分からないという感覚でやろうって。そういう危機感を常に感じながら仕事に臨めているのは、少なからずサッカーでの経験があったから。僕がサッカーから学んだ一番のことは、プロとしての在り方とチームワークですね。」
ガンバを戦力外通告された後、当時JFLだった佐川急便から声がかかった。しかし、嵜本さんは佐川急便で1年間しか活動していない。J1経験者であれば、何の問題もなく活躍できていたはずなのだが、そこには自分の思い描いたサッカー人生を歩めないんだという次への意志が眠っていた。
「芝生から土のグラウンドに変わり、午前中は佐川急便の横じまの制服を着て仕事をし、午後に練習をするという生活。J1を経験しているとやはりつらくて、プライドもずたずたでした。でもそれが現実で、稼ぐことの難しさや仕事ってこういうものなんだっていうのを改めて理解しました。このまま続けてたらダメだ、でもJ1の第一線で活躍できないこともわかっていたんです。それで佐川を1年で辞めて、引退しました。」
「奇跡が起こればまだJ1で活躍できたかもしれないけど、奇跡のレベルでした。その奇跡に懸けるかを考えた時に、引退して新しい何かにチャレンジして、そっちで見返すぐらいの人間になるほうがいいという判断で僕は辞めたんです。でも、多くのサッカー選手は夢がかなってプロになれたから、自分の能力の限界が分かっててもチャレンジし続けるんですよね。続けることの美しさもわかったうえで、賛否両論あると思いつつ僕は辞めました。」
プロに憧れたサッカー少年は、いつしかサッカーが楽しめなくなっていたのだ。
「サッカーを楽しめてたのは高校までですね。プロに入ってからは余裕がないから楽しめなかった。楽しめないから結果も出なかったんですよね。」
--素人だからできる柔軟なアイデアと発想を
引退した嵜本さんは、父の家業であったリサイクルショップで働き始め、同時に兄二人と共に兵庫県の西宮でケーキ屋を開始。地域に愛されるお店をつくろうと始めたお店で、6cm角の立方体のシュークリームがヒットする。
「兄弟3人誰一人として洋菓子業界を経験していない、リサイクル屋の3人がケーキ屋を始めたわけですけど、それがヒットしたのは業界を知らないからこそできた固定概念のない商品を開発できたからだと思うんです。全くのど素人だから何が難しいかも知らない。こうやったらおもしろいという無理難題をどんどんパティシエにリクエストして、一緒につくっていきました。それが実際に売れたことで、やっぱりこれから作っていくもの全てにおいて、柔軟なアイデアや発想が必要だと理解したんです。」
先に兄ふたりが入っていたリサイクルの仕事は、古くからある旧態依然とした仕事。嵜本さんは、そこに未経験の強みと華やかなプロサッカーの世界の経験を生かし新しい事業を立ち上げていく。
「最初は教えてもらうことばかりでした。この会社の中で自分が貴重な存在になるためには、何をすればいいかと考えて、当時まだアナログだった環境からネットオークション事業部を立ち上げて、今まで店頭で売っていた電化製品や家具の販売を始めました。それがうまくいって、小さなリサイクルショップの中で自分の存在感を示せたことで、家具のような大きくて単価の低いものより、小さくて単価の高いブランド品や貴金属に注目して、2007年に大阪のなんばにブランド買取専門店「なんぼや」をオープンさせました。」
その後、09年に東京進出を果たし、11年には株式会社SOUを設立し同社代表取締役に就任。「なんぼや」の他にも、BtoBのオークション事業「STAR BUYERS AUCTION」やBtoC販売事業の「ヴィンテージセレクトショップ ALLU(アリュー)」などを展開。年商200億を超す企業へと急成長を遂げている。
--モノと会話するのではなく、思いをつないでいくこと
「私たちが急成長した背景にあるのは、お客さまの立場に立って接客を追及してきたところかなと思ってまして、なんぼやオープン当時の買取店はどうにも上から目線で、お客さまより鑑定してる人間のほうが偉いみたいな感じがありました。買ってあげるみたいな会話で、モノとしか会話していない。無言の空間で待たされて、『いくらですけど売りますか、やめますか』みたいなドライな接客の所がほとんどでした。僕たちはそれにすごく違和感を感じていたんです。リサイクルショップ時代もいかにお客さまに自分自身を買ってもらうか、どんだけ笑かせるかみたいな感じでしたから(笑)。」
さすがの関西人メンタル。
「商材がブランド品、貴金属になった時、目の前のお客さまにたった10分や20分の商談の中で、いかに僕という人間を信じてもらえるか、楽しんでもらえるかということをサービスとして提供したんです。お客さまは必ずしも単純にモノを売る先を査定価格だけで評価していないということがわかって、だからこそ徹底的にお客さまと仲良くなるような話もして、お客さまが本当にほしい情報を提供し続けてきました。旅行に行きたいという目的があれば、あそこに旅行に行ったら楽しかったとか、そういう会話もあった。それが他社のやっていなかった付加価値で、でもこれは接客業として当たり前のことでもあるのに、それができていない業界だったということでもあります。」
モノを売りにきた人は、当然1円でも高いお店に売りたいと考えるはず。でも、嵜本さんたちの接客は必ずしも最高値を提示できていなかったにも関わらず、しっかり買取の商談が成立していたという。そこにはモノと人を巡るストーリーが関係していた。
「お客さまも一度はそのモノを好きになって、かつなりたい自分に近づくためにそのモノを買ったんだと思うんです。そのモノとの出会いや一緒に過ごしたストーリーをヒアリングして、ただ買い取るのではなく、その思いとともにその商品をしっかり次の方につないでいくことができれば、単純に金額で商談がクロージングする会話より、売買の質が高いと思いますし、お客さまが求めてるやりとりだと考えています。」
お客さまのブランド品の買取を仕事としている嵜本さんは、ラグジュアリーブランドのブランド品が持つ価値とはどんなものだと思っているのだろうか。
「僕は、現時点でなりたい自分になるための手段みたいな、感じで考えています。背伸びも含めて。ある瞬間にほれ込んで高価なものを買った時、自分の行動を肯定するために“一生ものとして買った”とか言いますよね。でも本当に一生使い続ける人って、ほとんどいないと思うんです。でもそれでいいと思っていて、人間が一つの物に満足し続けてる状態って成長意欲が止まって満足してしまっている状態であまり良くない。闇雲に買い続けるのはよくないと思いますが、身に着けてワクワクしたりできるのは成長し続けてるからこそで、新しいモノゴトを体験しようという意欲は、成長の結果でもあり、促してくれるものだと思うんです。」
--サッカー選手のセカンドキャリアと経験のリユース
成長しなければ生き残れないプロの世界を経験し、厳しい現実を見てきた嵜本さんらしい言葉に聞こえた。嵜本さんがプロだった時代からJリーグや選手を巡る環境は変わってきているが、現役時代の短いプロ選手のセカンドキャリアについての難しさも指摘してくれた。
「現役でサッカーをしてる時には、ある意味誰も何も教えてくれないんです。今でこそインターン制度などセカンドキャリアに関するケアは増えたものの、若い選手はプロとして生きていくことで精一杯。よく聞くサッカーバカにならざるをえない日々を送ってしまっています。最近ではSNSの影響で、自分で自分の価値を発信することでファンやフォロワーが付いてきてくれるので、セルフマネージメントができる人は上手に使っていますけど、やはりサッカー選手として目先のことしか見えていないのが大半です。現役である今こそフォロワーを集めるチャンスだということがわからない。フロントや選手会側にもそういう取り組みをちゃんと教えられる選手もいないのが現状。サッカー選手はチームに属してはいますけど、個人事業主でひとり従業員社長なんです。でも社長業は一切できていない。だから、世の中のことよりサッカーで結果を出すことしか考えれてなくて、もちろんそれが大事なんですが、同時にリスクでもある。夢や野望がある意味で邪魔をして冷静な判断ができず、活躍できない何年間のプロ生活という投資のコストに対して、引退後の十分なリターンが回収できていないと思うんです。自分の実力を見切る、見極める前向きな撤退っていうのは、個人としても事業としても、すごく重要なんです。
僕がまだまだですけど、求めてくれる人がいれば、将来的にはそういうことを伝えられる存在になれたらと思っているんです。実際、同期で今も現役でフロンターレにいる選手からセカンドキャリアの相談を受けていて、教えられることや今やっておくべきこと、会っておくべき人などについてアドバイスをしています。僕も現役時代は考えられていませんでした。でも結局辞めて次の世界に行くって決めて、その決めたことを正しくするだけの話だと思って、そこだけにずっとフォーカスし続けてきたからこそ今があって、選択を正しいものにし続けてきました。サッカーに限らず、事業に限らず、自分の選択を正しいものにできるようにこれからもがんばっていきます。」
リユースは、モノだけじゃなくかつて経験した時間を未来のために改めて使うことにも当てはまりそうだ。アルバムになるユニフォームは、そうした経験と時間の軌跡を収めるものになるのかもしれない。
--嵜本晋輔さんのアルバムが完成しました
嵜本晋輔さんのガンバ大阪3年目のユニフォームをループケアし、アルバムに仕立て直しました。
--生まれ変わったアルバムを手にした嵜本さんからうれしい感想が届きました
「ガンバ大阪を退団した後、クローゼットにしまったままになっていた思い出のユニフォームが、今回アルバムという新しい形に生まれ変わって手元に届き、とてもうれしく思います。
当時のチームのエンブレムや、ユニフォームに刻まれた私の名前はそのままに残していただき、大変懐かしく感じると共に、当時のことを思い出しながらも、サッカーを辞めるという決断をした今をより一層実りあるものにするために頑張らなければと、改めて気を引き締める良いきっかけにもなりました。
いただいたアルバムにたくさんの良い思い出を残せるよう、今後も努力してまいります。」
聞き手: 山口博之
写真: 小野慶輔
嵜本晋輔
株式会社SOU 代表取締役社長
1982年、大阪府出身。
関西大学第一高校卒業後、Jリーグ「ガンバ大阪」へ入団。
引退後、父が経営していたリサイクルショップで経営のノウハウを学び、2007年にブランド買取専門店「なんぼや」を関西にてオープン。2009年には東京進出を果たす。
2011年、株式会社SOUを設立し同社代表取締役に就任。「なんぼや」の他、予約もできる買取専門店「BRAND CONCIER」、BtoBオークション事業「STAR BUYERS AUCTION」、BtoC販売事業「ヴィンテージセレクトショップ ALLU(アリュー)」、「ブランドリセールショーZIPANG」を展開している。
2018年3月、元Jリーグ選手として初めて東証マザーズへの株式上場を果たし更なる成長を目指している。
聞き手: 山口博之
写真: 小野慶輔
三浦剛さんと
人生を変えたハワイの
アロハシャツ
Garden creator
18.02.08
今津正彦さんと
苦しかった時代の
奥さんのワンピース
株式会社アイ・エム・シー ユナイテッド 代表取締役
18.06.28
佐藤恵子さんと
あの頃一目惚れした
スカート
整理収納アドバイザー/親・子の片付けインストラクター
18.07.08
堤信子さんと
好きになり始めた頃の
アンティーク着物
フリーアナウンサー/エッセイスト
18.03.28
山本美直さんと
子を通して繋がる母の
ツーピース
ブランド「ヒトツトテ。」作家
18.06.08
池田沙織さんと
ふたりの子どもが着た
手作りの産着
アクセサリーデザイナー
18.05.28
浅野史瑠さんと
デザインした文化祭の
Tシャツ
雑貨作家
18.05.18
竹中庸子さんと
三世代で受け継いだ
被布
特定非営利活動法人もちもちの木理事長
18.06.18
藤岡聡子さんと
兄弟で継いで着てきた
着物
株式会社ReDo 代表取締役
18.03.08
藤江潤士さんと
サラリーマン時代の
オーダースーツ
シンガーソングライター
18.05.08
三浦剛さんと
人生を変えたハワイの
アロハシャツ
Garden creator
18.02.08
今津正彦さんと
苦しかった時代の
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株式会社アイ・エム・シー ユナイテッド 代表取締役
18.06.28
佐藤恵子さんと
あの頃一目惚れした
スカート
整理収納アドバイザー/親・子の片付けインストラクター
18.07.08
堤信子さんと
好きになり始めた頃の
アンティーク着物
フリーアナウンサー/エッセイスト
18.03.28
山本美直さんと
子を通して繋がる母の
ツーピース
ブランド「ヒトツトテ。」作家
18.06.08
池田沙織さんと
ふたりの子どもが着た
手作りの産着
アクセサリーデザイナー
18.05.28
浅野史瑠さんと
デザインした文化祭の
Tシャツ
雑貨作家
18.05.18
竹中庸子さんと
三世代で受け継いだ
被布
特定非営利活動法人もちもちの木理事長
18.06.18
藤岡聡子さんと
兄弟で継いで着てきた
着物
株式会社ReDo 代表取締役
18.03.08
藤江潤士さんと
サラリーマン時代の
オーダースーツ
シンガーソングライター
18.05.08
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