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原田美貴さん

東京花屋修行時代の
エプロン

17.12.18
HIROSHIMA

10月、広島市の国泰寺から土橋町へ移転した花屋のシャムロック。11年目となるお店のオーナーである原田さんは、かつて東京の花屋にいた。東京を経由して、地元広島で花屋を営むこと、花を届ける人として何を考えているのか。お客さまと一緒に花をつくりたいと話す原田さんの大切な経験のこと。

広島のフラワーショップ、シャムロック。大きな通りからお店の入り口までのアプローチには珍しい植物が所狭しと並べられ、元気に葉を茂らせている。大きなガラスの扉を開くと、ひんやりとした空気を感じたのは、草花のために冷蔵がかなり強めに効いているからだった。
取材時、元々は庭のある普通の民家で、5年間営業してきた国泰寺のお店の引っ越しが決まり店舗を探している時だった。

「2006年にオープンしたので、シャムロックをはじめて11年ですね。いま40歳なのですが、生まれは広島で、山口の短大を経て24歳で東京に行き、29歳で帰ってきました。」

花屋さんになったきっかけはいったいなんだったのか聞くと、元々辿るはずだった道を急遽変更した結果だった。

「就職も決まって大学卒業後、広島に戻ってきたのですが、母が倒れてしまったんです。看病をしなければいけなくなって仕事を諦めたのですが、結果的には元気になったんです。そうしたら、好きなことをどうぞと言われて、どうしようかなと思いながら知人の飲食店を手伝っているうちに、花屋のバイト募集を見つけて、おもしろそうだなと簡単な気持ちで入ったのがきっかけでした。」

女の子が花屋さんに憧れるという話はよく聞く話ではあるけれど、花が好きな子どもだったのだろうか。

「小学生時代、好きな花屋がありました。すごいかっこいい花屋で、大きな水槽があって熱帯魚を飼っていて、バーもあった。昼間はコーヒーも飲めるんだけど、夜はバー営業をしていました。しかも突然アヒルを飼いだしたりもして(笑)。主にアヒルに会いに行っていたんですが、子どもながらにかっこいい花屋だと思って、本当に大好きだった。ちょっと変わった方向かもしれませんが、お花屋さんに行くという意味では割と生活の中にあったと思います。もうひとつ覚えているのは、スイカを食べて鉢の中に種をペッて吐いたら芽が出たこともありましたね(笑)。」

今に至るまで続けてきたということは、花などの植物を扱うことが性に合っていたということだろう。アヒルに会いに行っていた過去からはなかなか想像がつかないけれど。

「働いてみてとても楽しかったんです。植物を目の前の至近距離で見るようになって、見方も変わって植物がおもしろくなったんですよ。花びらの配列から、おしべめしべ、実のなり方、ドライになったら種が開くとか、何でもないことの感動が大きかった。」

原田さんは、当時を思い出すように花の魅力を熱く話してくれる。約4年、その花屋でアルバイトとして働いたが、最後の時期、花屋さんを廃業するという人がおり、お店をやらないかと誘いを受けたという。

「自分一人でやることにまだ自信がなくて……。今やっていいのかなと尻込みしてしまった。当時、草月流を習いに行ったり、NFD(日本フラワーデザイナーズ協会)の資格を取ったりして、自分に自信を付けようと思って動いていた時期だったんですけど、その時はまだできていなかった。」

その後、ベルギーの世界的フラワーアーティスト、ダニエル・オストの仕事を手伝える機会があるという話を聞きつけ、飛行機に乗った。お城の離れで行われたチャリティーイベントのパーティーだったのだが、自分のように東京や福岡などいろいろなところから日本で活躍する花関係の人も参加していた。それを経験した原田さんは、外の世界を見てみよう、東京へ出たいと気持ちが強くなった。

「お店やるとかの前に、広い世界を知ったからその広い世界に乗り込んでみようみたいな感じでした。地方の花屋さんなので、花がアートととして扱われることは少ないんですよね。それですごく衝撃を受けた。」

3月末まで働いた直後、4月1日には広島を出ていた。最初は短い期間だったが、南青山のFUGA(https://fuga-tokyo.com/)で働き、その後、当時代官山と中目黒の間にあったMatilda(マチルダ http://matilda.co.jp/),へ移る。

「マチルダは小さいお店なんだけど、お花のほっこりする側面じゃない力強さがあって、インパクトのあるディスプレイがかっこよかった。奇をてらった素材ばかりを使ってるわけではないのに、形と色のグルーピングでインパクトを与える手法が新鮮でした。」

東京の花屋は、広島にいる間に雑誌などでチェックしていた。それを見ていたお母さんが、「見に行っておいで」と誕生日に東京行きのチケットをプレゼントしてくれたこともあったそうだ。母ひとり、子ひとりの家庭だった原田さんが東京で仕事をすると決めた時は周囲から反発があったという。

「年老いた母を1人置いて今さら東京に行くってバカか、みたいなことは言われましたね。何かあったらどうするつもりだって。でもある日、母とご飯を食べて席を立とうとした時、『気にしなくていいよ。私は1人でやっていけるから大丈夫。あなたの人生だし、逆にそんな負担に思われてる方がいやだから』と言ってくれて、『すいません、1年行ってきます』って。結果5年とちょっと居たんですが(笑)。広島に帰ってきた時には29になっていました。」

1年と行って出ていった娘が戻ってこなくても、お母さんは「帰ってこなくて大丈夫」と言ってくれていた。マチルダではチーフデザイナーとして活躍し、ディスプレイやパーティーの装飾など、オストの現場で観た憧れを自分なりのかたちにできていた。そんな時期、広島に戻ってくることになったのは、東京に行かせてくれたお母さんが体調を崩したからだった。

「帰ってからも『帰ってこなくてよかったのに』とまた言っていましたから。娘の未来の負担になるのがしんどかったんだと思います。けど、いま帰らなかったら私が後悔するから、負担とかではなく、その方が楽だからと話をしました。」

とはいえ、激戦区で感度の高い東京でいい仕事をしてきた自負もあった原田さん。春に広島に戻り、秋口にお店をオープンさせることを決めていた。鼻も高々、天狗になっていたという。

「出店場所もどこだって大丈夫。もうみなぎる自信ですよ。忙しくなったらどうしようとか考えていたのに、いざ始まったらもちろんそんなこともなく……、大変でした。マチルダ時代は、本当にみんながフォローしてくれてチーフデザイナーになって、気持ちよく仕事をさせてもらっていただけだったんですよね。必要な道具はアシスタントの子が揃えてくれて、抜けてるところはフォローしてくれていて。それが一人になった途端てんやわんや。いくら花をかっこよく作れるようになったからって、商売ってそれだけじゃないですよね。作り込み過ぎて、逆に威圧感を与えてしまっていました。かっこよく見せたい一心でしたね(苦笑)。」

今でこそ広島のスタイリッシュな花屋として存在感があるが、事業として花屋の経営は難しいと語ってくれた。そもそも苦手らしい。

「そもそも自分と花との向き合い方のことだと思うんです。例えば市場で日本一のアジサイを見つけたら、『うわっ、きれい! ほしい!』って買っちゃう。お店のディスプレイに掛けてる投資が大きいのかもしれません(笑)。効率よく儲けることを考える違うやり方があるはずだけど、目の前にいい花や植物があったら欲しくなっちゃう。それと、店頭に作り置きしてどんどん個数を出していくというやり方をしたくない。オーダーで作りたいんです。来店していただいて、プレゼントされる方の話をいろいろ聞きながら一緒に作っていくことが、想いを乗せるじゃないですけど、一緒にという感覚があります。だから、全部お任せじゃない方がうれしい。以前、おじさまに渡す方のこと聞き過ぎて怒られたこともあります(笑)。だからどうしても時間も掛かっちゃうんです。」

お客さまありきでお花を作ることのストーリー性や共同作業の美しさはあるが、原田さんの作る花の個性はどこに出てくるのか気になった。

「テーマやご希望に合わせて作るのが花屋だとは思っている反面、好きなものを作ることとお客さんの希望に寄せていくことのバランスについては悩みます。最近、ウェディングなどのお仕事もよくやらせていただいて、コンセプトのあるウェディングの場合、私からの提案も大事になってくるんです。今ままではどんなもの持ちたいですかと聞いてばかりだったのに。」

長く花屋を続けてきて、一度なくした自信が、自分の信じる美しさをちゃんと相手と共有できるところまで技術も経験も成長してきたという実感が湧いてきたのかもしれないと感じた。

「相手に選んでもらって、確かめることで逃げてきた部分もあるんじゃないかという気持ちもあったりします。でも、今でも本当に一番は、お客さまに喜んでもらえることです。そこは変わりません。肩書もただ花屋だと思っています。フラワーアーティストと名乗りたいと思ったことはないです。アーティストっていう言葉が重いんだと思う。これを持って行きなさいとお客さんに差し出すのがアーティストだとしたら、私はそうじゃない。どんな方ですかとか、ここでお客さんと一緒に作ることをしていきたい。」

今回、原田さんがループケアするのは、今のスタイルで花屋として働く自分の原点でもある東京のマチルダ時代のエプロン。何度も繕った痕は、クリーニング屋さんで穴が空くたびに修繕してもらったそうだ。

「すぐ新しくすることも選べたのかもしれないけど、使える限りは当たり前に直して使っていました。マチルダで着け続けたからか、今ではエプロンがないと落ち着かないというか、仕事モードに切り替わらない。うちもマチルダに習って長エプロン。実は長エプロンて、花屋的にはちょっと大変なんです(笑)。作業しづらい上に、よく引っかかっちゃう……。でも私にはエプロンと言えば、このイメージが強くてどうしても長いのがよかった。」

麻で出来ているのだけれど、とても質のいいのがわかる。長く使ってきた故の柔らかさもある。

「たくさん穴が空いていますけど、私が人一倍ひどかったと思います。私、おっちょこちょいだからいろんなところに引っかかりながら歩いてた記憶が……。だから、他のスタッフはもっときれいでしたよ。でも、マチルダではこっちにいたままではできない仕事をたくさん経験させてもらいました。」

取材後、移転先も土橋町に決まった。いまは営業を始めている。シャムロックという名前は菊の名前だが、なぜこの名前になったのだろう。

「マチルダに勤めてる時、真緑の菊が入ってきたんです。緑の花ってそもそもそんなにない。シャムロックという名前も聞いて、かっこいいと思って覚えていたんですが、店名を花の名前にしようと思って考えていた中にシャムロックが浮かんできた。それから調べてみたらシャムロックはクローバーのことだということもわかって、花の名前でありながら、花を引き立てる緑でもあるというのはおもしろいと思ったんです。私、男性が女性に花を贈る姿が大好きで、男性が入りやすい店にしたいと考えていたので、ロックって音楽的な要素もあって力強さも含めて店名にピッタリだなって。私、男性が女性に花を贈れば世界は平和だと信じてるんで。」

アルバムになって戻ってくる大切なエプロン。原田さんが誰かのために作り続ける花は、誰かの人生の大事な時間の側にいる。写真に撮って残しておきたい、原田さんの大切な時間はどんなものになるのだろうか。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

PROFILE

PROFILE

原田美貴

SHAMROCK -シャムロック- 店主

1977年生まれ。大学卒業後に広島で花屋のアルバイトを経験したところ本格的に学びたいと東京での修業を決意。5年余りの修行期間を経て、広島にもどりシャムロックを開店させる。
アーティストではない、一人の花屋店主としてお客様に寄り添う花屋として活躍中である。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

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