イソナガアキコさん
と
闘病を支えた父親の
着物
17.12.28
HIROSHIMA
25歳で結婚し、27歳で長男を出産。仕事をしながら、今また4歳の子育てをしているイソナガアキコさん。自分の夢が自分のものではないことに気づいた大学時代、人生で初めて長く続いているライターという仕事。父の闘病、死を経験して見つめた父娘のことなど、イソナガさんの気づきと行動の軌跡を伺った。
広島で生まれ育ち、ずっと広島しか知らないと話してくれたイソナガアキコさん。
「40歳を超えた今でも広島から出たいという気持ちもあります。ただ、今は地元の人が地元の魅力を伝える「瀬戸内finder(https://setouchifinder.com/)」というウェブサイトでフォトライターをやらせていただいて、広島ももちろん楽しい。フォトライターとは言っても、ライター、カメラマン、ウェブのディレクターなどなど、全部中途半端に足を突っ込んじゃって本業はこれ、というのがないのが本当のところです(笑)。」
元々は医療系の仕事に就き、大学の医学部に営業をかける毎日だったという。いつウェブやライターといったメディアの仕事をすることになったのだろうか。
「25歳で結婚したんですが、勤めていた会社が結婚したら退社するという暗黙のルールがあったんです。せっかく総合職で入ったのに、3年で辞めざるを得ずという状況でした。その後、27歳の時に長男を生みました。パートはしていたけどほぼ専業主婦。周りの友人たちはまだ働いてるし、生まれた直後は子どもを通じた友だちもいないしで、社会からぷっつり絶たれてしまったんです。そんな私を救ってくれたのがインターネットで、子どもが二歳の頃、ママ友を通じてその楽しさを知りました。そのお母さんがホームページを趣味で作っていて、私もすぐパソコンを買って、教えて!って。」
趣味でやっていたリメイクした小物の写真を上げたりして、2年近く楽しんでいたある日、そのママ友が登録性のライタースタッフとして働くという話を聞き、面白そうだと自分も登録。ウェブの仕事はまだまだ社会に需要が少なく、イベントのお手伝いから始まり、来る仕事は何でも受けて顔を覚えてもらおうとがんばった。徐々に仕事が来だし、自分のやりたい仕事を見つけながら、今にまで繋がったそうだ。
「WEBディレクター募集にも、ホームページを運営していましたというのが活きました。趣味なのでほぼハッタリみたいなものでしたけど、当時はまだ効きました(笑)。」
そうして仕事を続けるうち、仕事先の女性が独立するから社員として働かないかという誘いもあったという。イソナガさんにとっては能力を買ってくれたまたとない誘いだった。
「子どもが3歳まではできるだけ一緒にいて、子育てをすべきという神話がありますよね。誘われた話を夫にした時、家で仕事をするのは別にいいけど、社員として外で働くのは駄目と言われたんです。今だったら、『何がだめなの?』と言い返すんですけど、当時はまだ結婚したばっかりだったし、子どものことを言われると自分としても悩んでしまうところがあって素直に聞いちゃったんです。」
子どもが3歳を過ぎた頃には、立場が徐々に変化していった。イソナガさんが働き始めることを止めることはできないようになっていたようだ。
「私、働かないとやっていけないでしょ?って(笑)。まだ二人共若かったですし、今度は夫の弱いところを突いた感じ。」
子育てに専念していた内向きの期間から、ガラリと外向きに開いた。
「知り合う人が、今まで知り合えなかったタイプの人ばかりで新鮮だった。とにかく仕事がしたくて、声をかけてもらったらちょっと違うかもと思っても絶対断らなかった。結果的にちょっと難しいのもありました。というよりも全部やり始めた瞬間に後悔するような状態でした。でも、とにかくやってつなげないと次がないという思いでした。」
当時の必死さがいまの語りからでも十分に感じられた。実際、畑違いだったライター、ディレクション業務というのは自分に向いている仕事だったのだろうか。全部後悔というような状況で、しんどくはなかったのだろうか。
「振り返れば、人生でこんなに続いたってこれだけなんです。就職しても3年で辞めちゃったし、友だちとの小物作りも子どものお付き合いが終われば終わりました。特別趣味を持っているわけでもなく、結局ずっと続いてるのが今の仕事。パソコンを触るのも好きだし、文章書いたり、写真を撮ったり、構成を考えたりというのも好きなんです。」
「思えば、小学生の時は小学校の先生になりたいって周りには言っていたんです。大学は結局、中高の社会の免許が取れる大学に行きました。でも、大学に入って先生になりたいという夢が、本当に私がなりたいと思っていたことなのかなと思い始めたんです。親や親戚から、公務員とか学校の先生がいいよみたいなことを聞いているうちに思い込んでただけなんじゃないかって、大学の時にフッと思ってしまった。」
見えない呪縛というほどでもないのかもしれないが、迷わずに歩めた日々が終われば自分で考え、決めなくてはいけない。親にとっての子から離れ、夫にとっての妻、子にとっての母からも離れたイソナガさん自身の生きる場所があったということ。閉じた環境にいたという意識のあるイソナガさんは、今なお広島から出てみたいという気持ちがあるという。
「昨年、金沢に何度も行く機会があった時は、金沢に移住したいと本気で思ってました。外には知らないことがもっといっぱいあるはずだっていう憧れかもしれないし、単純に広島から出たことないのがコンプレックスだったりもします。ずっとここで生きてきて、これからもここにいなきゃいけないということにですね。」
そうした気持ちはお父さんが亡くなったことも影響しているのかもしれない。今回、日傘へとループケアする着物は、4年前に亡くなったお父さんのもの。10年前にガンがわかり、7年闘病した。72歳だった。
「この着物は、私がちっちゃい時、私のおばあちゃんが父に作ったもの。だから、父が着ていた記憶はなくて、お正月とかに着てたらしいです。私にはめちゃくちゃ甘い人で、父に怒られた記憶もほぼなくて、すごくかわいがってくれたんですよ。弟もいたし、家族に気を遣うというか、家族間のバランスをとるために子どもながらにちょっとカッコつけて父と距離を取っていた。だからガンになった時にどうしようと慌てて、そこから20何年分の親孝行をしたんです。失くした時間を取り戻すために。本当に濃厚な7年でした。」
その家族間のバランスのために距離を取っていたというのは、優しかったお父さんも気付いていたのだろうか。
「どういう気持ちだったんだろうと最近思うんです。普通に思春期や反抗期みたいなものと思われてたのかなとか。父親的にはあんまりいい気持ちじゃなかっただろうなとは思います。だからあの闘病の7年がなかったら、本当に私、親不孝のままでした。病院の手配から、セカンドオピニオン、治療法の方針も必死で調べました。」
ガンとわかって初めて縮まった距離。距離を感じていたかもしれないお父さんが娘にガンを告げるのはきっと勇気がいったはずだ。どんな反応をされるかもわからないのだから。
「ガンについては自分から言ってきたんです。別の病気で病院に行って検査をしていたら、ちょっと可能性があるから調べましょうと言われたと言いに来たんです。でもそれも普通に来て、普通に話しをした帰り際、玄関で見送った時、『わし、ガンかもしれない』と帰り際にひとこと言って行ったんです。」
おそらく家に来た瞬間からずっと言おうと思っていたはずだ。来たとき言えなくて、ずっときっかけを探しながら、結局去り際に言うしかなかったのだろう。
「言いたかったんでしょうね、ずっと。そういう人だったから。でもそれからのお父さんはとても偉かった。決して悲観することもなく、いら立って怒ることもしなかった。だからすごく話ししやすかったんです。」
ガン当事者がすべての情報を聞き、調べ、判断するというのは現実として難しい。イソナガさんの支えは、お父さんにとって何よりの存在だったはずだ。自分の生命を他の人に預けるということの辛さもあったはずだとイソナガさんは言う。
「人の言うことを聞いて実行するのも割とつらい判断じゃないですか。娘が良かれと思って言ってくれてたとしても。だから、私もなるべく押し付けないようにしました。でも、大体私の言うことを聞いてくれた気がします。」
結果的にその看護のおかげで長く元気でいられて、その間に2人目の子どもも生まれた。
「仕事も離れたお父さんにとって本当にかわいかったみたいでした。でも、逆にその子がちょうど0歳から1歳の時で、段々父の最後に近づいていく時期に子育てでずっと病室にいてあげられなかったのだけが申し訳なかったです。」
「亡くなる入院の直前、うちに母と一緒に遊びに来たんです。車を運転してきたんだけど。珍しく自分からしんどいと言って、それなら家にいればいいのにちょっと出てくると言って車で外に行ったんです。1時間ぐらい待っても帰ってこないから心配になって私が探しに行ったら、近所の薬屋さんの駐車場に車を停めて、寝てたんです。しんどい姿を皆に見せたくなくて、ひとりになって我慢してた。お願いだから帰ってきてと言って連れて帰り、次の日から入院してそれが最後でした。本当にぎりぎりまで父は父でしたね。」
これまでを取り戻すように濃密な7年間を過ごした父娘。今回の着物をループケアして作る日傘が、すっぽり抜けた20年間の思い出を補うような存在になってくれればうれしい。これからのイソナガさんの思い出の側にその日傘があれば、きっとお父さんも喜ぶはずだ。
--イソナガアキコさんの日傘が完成しました
イソナガアキコさんの闘病を支えた父親の着物をループケアし、日傘に仕立て直しました。
--生まれ変わった日傘を手にしたイソナガさんからうれしい感想が届きました
「父の羽織を日傘にリメイクして頂きました。
かなり厚手の生地だったので、お願いしてみたものの「果たして本当に日傘にできるのかな」と少し心配もしていたのですが、出来上がった日傘はそんな心配をしていたことすら忘れるほど立派な日傘に仕上がっていました。
晴れた日に、そっとさしてみると、日傘に降り注ぐ陽光が羽織としてみていたときには気づかなった模様を透かして見せてくれました。
その瞬間、ちょっと涙がこぼれそうになりました。
正直、この羽織を着た父の姿は私の記憶にあまりありません。
けれどこの日傘をさすと、確かに父を感じたのです。
今回、このリメイクにあたってインタビューを受けた際に、父との想い出やこれまでの自分の軌跡を色々お話させていただきました。
質問に答えていく中で、自分でも気づいていなかったような想いにはっとさせられることもしばしばでした。
そして出来上がった記事を拝見して、改めて父との闘病の数年間や、自分が生きてきた日々を客観的に振りかえることができ、よい経験をさせていただいたなと心から思いました。
このような機会を与えていただいたリシュマムの皆さまに感謝の気持ちでいっぱいです。
本当にありがとうございました。」
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
聞き手: 山口博之
写真: 山田泰一
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