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山中洋さん

静かで控えめな祖母の
着物

18.07.20
HIROSHIMA

1928年創業、今年90周年を迎えたマルニ木工。山中さんの祖父と大伯父が立ち上げ、現在は山中さんの従兄にあたる山中武さんが社長に就任。海外留学、海外出向を経て、国内外様々なデザイナーとの協働を実現。現在のマルニ木工を作ってきた山中洋さんとマルニ木工、そして家族のこと。

--スポーツの世界に行きたかった

「僕らで3世代目になります。僕自身、自分から入社する決断をしたのですが、親族だから経営をするんだというような大それた感じではなくて、親父がしんどそうだから手伝おうかくらいの感じでした。家具が大好きとか、インテリアにすごい興味あるとか、そういうことではありませんでした。」

家業を継ぐというような大きな目標があったわけではない。それはそもそも高校、大学と山中さんはスポーツに打ち込み、その先に将来を考えていたからでもあった。

「元々高校でサッカー、大学からはアメフトをやっていて、プロとは言わないけどスポーツに関わる仕事ができたらいいなと思っていました。アメフトに切り替えたのは、サッカーでのあるきっかけがあって……。高校のサッカー部が超弱かったんですね。勝ったら県大会出場、負けたら引退という試合がありました。2対2の同点で残り時間約5分、このままだとPKという場面。ディフェンダーでキーパーの前のポジションだったんですが、自分のところにボールが飛んできてクリアしようとした瞬間、つまずいて後頭部にボールが当たってまさかのオウンゴール。キーパーも取れない素晴らしいコースに飛び、僕の公式戦初ゴールが決勝点となって、それが高校サッカー最後の試合になりました。この時、初めて母親と当時付き合ってた彼女を試合に連れてきてたんです。最後の試合になるかもしれないから見に来てくれと。気付いたらいなかったですからね。これはさすがにもうサッカーやっちゃだめだと思ったんです(笑)」

明治大学へ進学し、体格のよかった山中さんはアメフトに転向。卒業後、本場のアメリカでアメフトをやってみたいと留学する。

「努力のレベルではなくてダメでした。到底一緒にやれるものじゃなくて、半年で諦めました。それでも学校だけはちゃんと卒業しようと、4年半くらいはアメリカにいました。」

--突然告げられた二度の辞令

日本帰国後、自らマルニに入社した山中さんが働き始めて1、2ヶ月経った頃、当時社長だったお父さんから「お前、イギリス行ってこい」と辞令を言い渡され、ウェールズのソファー工場へ出向することとなる。

「『海外のものづくりをちゃんと学んでこい』と。まぁ、アメリカにいたので日常会話くらいは問題ないと思っていたんですけど、英語とはいえ訛りがすごくて全く聞き取れない。仕事だから家具の専門用語も混ざってきて、入ったばかりで日本語ですらよくわかってないのに英語で言われて、半年くらいはノイローゼになりそうでした。」

ものづくりや木のおもしろさに気づけた2年半の滞在を経て、30歳手前で本格的に日本での仕事が始まる。現場で覚えてきたことを生かして工場の仕事をするという予想は裏切られ、今度は「お前、東京行って営業やれ」とまたも辞令が下る。

「ウェールズの工場での2年半は何だったんだと思いながら東京に行って、百貨店を担当しました。営業は初体験でまったくわからず大変でした。」

バブルがはじけて低調だった社会は、クラシックな高級家具を扱うマルニには大きな逆風だった。若手の山中さんにとっては営業先で薦めはするもののクラシック家具が、どこか古いもの、父親世代のものという気持ちも拭えなかった。それもあって会社も、自分もどうにもうまく回らない日々だったという。

--nextmaruniプロジェクトの始動

「このままじゃ駄目だ。外部の人間に託してみようと、初めて外部のデザイナーさんと一緒にやったプロジェクト【nextmaruni】を始めたんです。それまでは国内だけだった取引を、海外にも売りましょうと背中を押してくれた人がいたんです。何をやってもうまくいかなかったこともあり、彼のアイディアに乗ることにしました。そうして12人の有名なデザイナーが集まり、気付いたらモノができ、気付いたらミラノサローネに出展していた。というくらいスピード感のあるプロジェクトでした。」

とはいえ、開発が簡単だったわけでは決してない。

「当時は『いいもん作っとんじゃけえ、なんで売れんのや』みたいなプライドばかりが先行していて、お客さんを置き去りにしてしまいました。外部のデザイナーさんとやるにあたって一つ決めたのが、もう過去のマルニは全部無視しようということ。営業が何と言おうが、工場が何と言おうが、デザイナーさんが形にしたいと思うものを100パーセント具現化しようというのが趣旨で始めたんです。」

当然、営業も工場も文句を言ってきた。

「こんな道楽みたいなことやってどうするんですかって。それを無視して、プロジェクトを進めてミラノサローネに出したら、12人のデザイナーさんのネームバリューもあってたくさん人が来てくれたんです。これだけの著名なデザイナーや建築家が集まって一つのプロジェクトに参加するのは世界的にも類を見ないと話題になり、まったく縁のなかったELLE DECORさんやCasa BRUTUSさんなどから取材の依頼が来るようになりました。」

必死に営業して置いてもらっていたのが、お店側から置かせてくれと連絡が来るようになった。流れは変わりつつあったが、【nextmaruni】の商品は全く売れなかったそうだ。とにかく続けようと3年続けたが、期待したほどには伸びなかった。

「3年やってわかったのは、PRの重要性とやっぱりうちの中心は工場であって、その強みや特性を生かしたものづくりをしないと駄目だなということでした。3年でそのプロジェクトはいったん仕切り直して、1人のデザイナーとじっくりものづくりをしたいという思いが現場からだんだん出てきました。」

--深澤直人とHIROSHIMA

「nextmaruniの12人のデザイナーの1人だった深澤直人さんに、改めて一緒にやろうとお願いして生まれたのがHIROSHIMAという今の代表作です。3年間のプロジェクトがなかったら、多分HIROSHIMAは生まれなかった。親父がHIROSHIMAを見た時、『いい椅子じゃのう。売れそうじゃの』って言ってくれたんですけど、親父が売れそうじゃのっていうときは大体売れないので非常に不安でした(笑)。」

一緒にものづくりを続けることにした深澤直人さんは、nextmaruniプロジェクトの時、ジャスパー・モリソンさんとともに最初に工場に来てくれたのだという。「マルニさんはせっかく良い技術を持ってるのに、最後に塗装をベタベタと塗ってしまって木の良さを殺してるようで残念だ」など、深澤直人さんは工場を回りながらマルニの褒めるべき点、改善すべき点を言ってきたという。

「結構はっきりと言われるんです。でもあまり頭にこない。この人だったら一緒にいいものづくりできそうだなと、私だけじゃなく工場の人間も同じ様な感覚があったようです。」
「深澤さんが最初に言っていたのは、僕はプロダクトデザイナーなのでデザインはプロだけどものづくりはプロじゃない。みなさんが気を遣って僕が言った希望がそのまま通るケースがよくある。だけど、それでは絶対いいものにならない。意見を言うこともあるかもしれないけど、違うと思ったことやこうした方がいいということがあったら言ってほしいと。それが讃岐うどんのコシみたいになって、本当にいいうどんになる。と表現をされていて、すごくしっくりきた。もちろん気は遣いますけど、言いたいことを言い合いながら、いいコミュニケーションができています。職人たちもデザイナーを驚かせてやろうと思ってると思うんですよ。すごくいい関係で続けてこられてる秘訣じゃないかな。だからこそ完成した時に満を持して世に出せるという感覚はあります。」

HIROSHIMAの取扱店舗も徐々に増えていき、国外では29カ国50店にまでなっている。個人のお客様への接点を増やしながらも、商業施設やレストラン、ホテル、オフィスなどコントラクトの仕事も数多く手がけている。最近では、Apple Parkに数千脚のHIROSHIMAを納品した。

「これまでで最大規模です。Appleの社員食堂とかミーティングルームとかでいま使われています。数千脚はさすがに大変でした。」

--喋ってもらえないおじいちゃんと控えめなおばあちゃん

従兄である3世代目とともに新しいマルニ木工を盛り上げる山中さんは、創業者の一人である祖父とほとんど口をきいたことがないという。山中さんが小さい頃に亡くなったが、夏休みやお正月に宮島にあった家を訪れても、なんと祖父だけ食事は別の部屋で取り、喋ったと言えるのは帰り際にバイバイと言って握手をするだけだったそうだ。

「ほとんど覚えとらんのですけど、じいちゃんはすごく怖かったんですよ。おじいちゃんが何をやっていたのかも、親父経由か社史で知っているくらいです。そんな厳格なおじいちゃんがいたので、おばあちゃんも物静かで控えめという感じでした。」

今回ループケアするのは、そのおばあちゃんの着物。しかし、祖父とそんな関係だった山中さんは、そんな祖父より前に出ることのなかった祖母ともそれほど多くを話したこともない。山中さんのお母さんが、祖母のことを語ってくれた。

「明治44年生まれで、84歳で亡くなりました。夏以外は一年中着物の人。良妻賢母、ほとんど家から出ない人でしたね。宮島に山口から嫁いできて、当時はまだテレビもなくて、茶の間で掘りごたつに入って着物の繕いをしたり、古い布を集めて、いまでいうパッチワークで屏風のカバーを作ったり、こたつの掛け布団を作ったりしていました。厳しい人じゃなかったですよ。言う時は言ったけど、自分が姑で苦労したから、それは繰り返さないという賢い人でした。着物は、昭和の始めくらいのものだと思います。義理の姉妹たちもいらないというので私が保管しているんですがとても物を大事にされていた方だったから、粗末にもできない。そういえば、宮島の実家は家具屋だったのに椅子じゃなくて畳でした。畳だと立ったり座ったり繰り返すから、どうしても膝の辺りの生地が痛むんです。そうすると、着物の上下を縫いかえて使っていました。」

--3代で受け継いでいるもの

ものが少ない時代に生まれた方で、たとえ裕福な環境にあろうとも物を大切にする素晴らしい方だったのがわかる。山中さんは創業者の一人である祖父、前社長のお父さんと似ているのだろうか。これも山中さんのお母さんに聞いてみた。

「私の主人、洋の父は、祖父(義父)の人を大事にするところが似ていると思います。宮島でも町会議員とか人のお世話をするのが好きだったみたいで、人の出入りがすごく多いお家でした。主人もどんな人でも歓迎して来る者拒まず、去る者追わず。洋の友だちが何人か1週間くらい家にいることもよくありました。でも、うれしいんですよ、それも。その友だちは、主人の誕生日を今も毎年お祝いして、お誕生日会をしてくれるんです(笑)。でも主人と洋は、悪いところも似たわね。」

おばあちゃんの着物を作り直して使い続けることは、祖父祖母ともに喜んでくれるはずだ。物静かだったおばあちゃんの着物は、日傘になって静かに家族を見守り続けてくれるだろう。




--山中洋さんの日傘が完成しました

山中洋さんのおばあさまの着物をループケアし、日傘に仕立て直しました。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

PROFILE

PROFILE

山中洋

株式会社マル二木工
常務取締役 営業本部本部長

1971年 広島生まれ
大学卒業後、アメリカの大学へ留学。卒業後、マル二木工に入社する。
入社後は、イギリス家具工場へ2年半の赴任を経て東京営業所の営業部門へ配属。
現在、常務取締役の立場から、世界的プロダクトデザイナー深澤直人氏、ジャスパー・モリソン氏と協業し、マル二木工を「世界の定番」として認められるブランドに育てている。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

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