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岡田志保さん

ロシアで見つけた
ファブリック

18.01.28
HIROSHIMA

広島に雑貨屋が少なかった90年代、24歳で自分のお店を始めた岡田志保さん。学校を出た後、そのままお嫁さんになって趣味を楽しむくらいに思っていた人生は、観光客の少ない小さな海外の町へ、ひょいとひとりで買い付けに行くようなアクティブなものへと変わっていった。

1975年生まれの岡田さんが、広島でよく知られた雑貨屋「bois2」(ボワボワ)を99年にオープンさせて今年で18年になる。元々、岡田さんのお母さんが開業していた飲食店の一部を使わせてもらって始めたことだった。

そもそもお母さんがお店をやり始めたことも含め、女性が積極的に自立していこうという家庭だったわけではないようだ。

「中高までずっと広島で暮らして大学は名古屋に。卒業してすぐ広島に戻って来ました。理由があったというよりも卒業したら戻るもんだ、みたいな先入観があったんです。というのも、中高が私立の女子高でお嬢さんぽいところで、大学までこのままいってお嫁さんになればいいね、みたいな感じの育て方だったんですよ。実際卒業直後は、ちょっと腰掛けの会社でも勤めて結婚します、みたいなイメージ持ってたんですけど、何だかちょっと人生にもやもやしてきて、店を開きました。」

もやもやから店を開くまでの流れがあまりに自然なことのように、突如話すのでびっくりしてしまった。もう少し詳しく、お店をやるまでの気持ちや状況の変化を教えて欲しい。

「そうですよね。えー、大学は美術大学だったんですが、日本画を専攻していました。とにかく絵を描くのが好きで、何時間やってても飽きない子でした。自分は勉強よりこっちをやって生きていきたいなって思って、とはいえ仕事にしようとかではなく結婚して主婦をしながら趣味として描いて暮らしていけたらいいなくらいで、深く考えずに進学してしまったんです。行ってみたら、皆さん本気。当たり前ですけど、プロを目指して来てる方ばかりでした。美大進学は、県外であることも含めて親からは反対されていました。受かった時にも、先生に説得してもらってやっと家を出さしてもらったんです。その先生との出会いが美大進学のひとつのきっかけでもありました。」

どうやらその美大の先生がかなり変わった人だったようだ。

「中高ずっとお世話になった先生で、『美術の道に進む気ないんか?』みたいに訊かれて、そんな道もあったんだって乗っちゃったんです。かなり破天荒な方で、ご実家がかなりのお金持ちで1年ごとに車が新車の外車に替わったり、ヘリコプターで福岡にラーメン食べに行ったりしていました。多分、先生という仕事も趣味的な気持ちがあったんじゃないかな(笑)。」

お嬢様学校に入れて美大の進学を反対したご両親。しかし、お母さんは飲食店をやっているということは、自立して何かをしていくことに賛成ではなかったのだろうか。家庭はどんな環境だったのだろう。

「母は昔、美大に行きたいと思ったことがあったらしくて、でも時代のせいもあって家政科に行くことになったみたいで、『そんなに思いがあるんならお母さん叶えてあげる。自分が夢を叶えられなかったし、行ってみたら』って。結婚しても父がすごくヤキモチ焼きで、俺の妻なのに他の男と喋ってるのが嫌だって、母はパートさえさせてもらえなかった。パートでもしたら他の男が寄ってくるに違いない、みたいな。ご飯を食べに行って隣に人が座っただけで怒ってましたから(笑)。母としては、そんな束縛から逃げたいのもあったんでしょうね。おかげで今はもうだいぶ解き放たれています。父は、母が本当に大好きで、子どもも眼中にない感じなんですよ。私が産まれる時も難産で、子どもを取りますか、お母さんを取りますかって聞かれても『妻で』って言ったらしいです。子どもはいつでも大丈夫ですって。」
「母は元々パワーがあるタイプなので、パワーがあり余っていて、子どもの頃の私と一緒に家でクマのぬいぐるみとかたくさん作って、近所のお店に置いてもらったりしていたのが、母と私のベースにあるのかなっていう気はします。私が20歳過ぎまで全く外にも出たことなかった母が、『お母さん、お店やるから』っていきなり言ってきて。外で働いたこともないのにお店やるって。そしたらその3カ月後ぐらいにカフェを始めたんですよ。」

なんと大胆なお母さんだろうか。この大胆さは、お嬢様路線を用意されながら、自分からその道を外れてきた娘に確実に受け継がれている。「確かに人生観が変わった」という母親の行動を見ながら、卒業後二年間はコンピューター会社のSE部署でネットのデザイン業務に携わった。そして、99年お店を始める。

「当時広島に雑貨屋さんがないという状況に飢えていたんです。Afternoon TeaさんやF.O.B COOPさんみたいな大手がやっと広島に進出してきた頃で、盛り上がってきたけど小さな店はあまりなかった。やりたい!という思いが溢れたというか。あたしがやらなきゃ、と勝手に。」

最初はお母さんがやっていた飲食店の一角を借りて、お店を始める。とはいえ、未経験で突然お店を始めるということに不安はなかったのだろうか。サラリーマンとしてバリバリ働くのとはまた違う怖さがある。

「不安でした。下積みもありませんでしたし。OLとして1年半くらい経った時に、OLしながら東京に転職活動に行っていて、パートで修行して30歳過ぎた頃に戻ってきてやりたいんだと母に話したら、『今やればいいじゃん。できるできる、あたしもできたんだから』って。」

雑貨屋さんを開業するための講座に通い、ビックサイトでやっていたギフトショーに行きながら取引先を開拓。徐々にお店を作っていった。

「とにかく安くて幸せになれる物を揃えたお店にしたくて。自分がコップ1個買うのにも1カ月かけて見て回って決めるタイプだったので、自分が気軽に出せる価格で一生使えて、ときめく物を集めた店が欲しかった。ちょっとずつ日常で買えて幸せになれたら、そんな最高なことはないと思って。最初は私だけが幸せになれる物を集めていたんです。でもやっていくにつれてお客さまが喜んでくださる物とズレが出てきて、皆さんが幸せになれるものと思っていたら、自分の趣味を超えて増えてきてしまったんです。だから今は、何がやりたかったかを改めて突き詰める段階にきています。この20年の雑貨を見てきて、新鮮だった物もだいぶ飽和してきてる。何でも簡単に手に入るし。そうじゃない一点ものや海外ものみたいな、心ときめく物を置けるようにしたいんです。一度元に立ち返って芯をしっかりさせないと、この先10年、20年は続いていかないんじゃないかと。」

もうすぐ20周年を迎える「bois2」のオープン後、広島にもたくさんの雑貨屋さんもでき、モノやモノづくりをめぐる社会的、文化的状況も変わってきている。岡田さんも、結婚や自身の出産などを経て、取り扱う商品も変わってきたそうだ。28歳でイギリスへ1年間の語学留学に行き、帰ってきて30歳で結婚。31歳で双子の女の子を、4年後の2011年に男の子を産んだ。18年お店を続けてきた間には、両家の実家に預けたりしながらとはいえ、3人の子育てという大仕事も平行していたということになる。

語学留学は、買い付けをするうちに感じた語学力への不満をどうにかしたくて、英会話教室ではダメだとわかっていたこともあって現地に留学。「大学生の頃、バックパッカー旅行が流行っていて、女の子の友人に誘われてトルコに行ったのが最初の自分たちだけの海外旅行でした。いろいろな国へ1ヶ月単位で行っていて、お店をやるようになってからは買い付けもするようになりました。ロンドンではナイフを出されて脅されたこともありました(笑)。」

買い付けという目的を持った旅は、みんながまだ見たことをないものを求めて奥にまで入っていく。

「中国ブームがあった時は、近いしよく行っていました。まだ人民服を着ている人しかいない時代でしたけど、招待状がないと行けないような状況で、それを乗り越えて絶対ばれてたと思うんですけど現地人を装いながら、内陸のほうまでだいぶ行きましたね。一番買い付けが楽しくなったのがロシアに行っていた頃。ペレストロイカ後でソ連が解体されてしばらく経ちましたけど、まだ十分なガイドブックもないし、地図もない。どうしようという感じでしたけど楽しかった。ハバロフスクによく行っていて、普通に見つけたお店に入って買っていました。布も巻きで欲しいんですけど嫌がられるんですよ。1mか2mしか切りたくない、みたいな。売る気がなくて、そんなに長いの測るのやだしって、どこでもそうでした。後半は普通に店頭で買うのではなくて、間にロシア語を話せる人に入ってもらってお金払って卸しみたいな感じでしてもらえるようになりました。けど、その辺りで結婚、出産があって渡航が途切れました。子どもを産んでも行く気満々だったんですけど、産んでみるとそうもいかず。10年経って、行きたくてムラムラします。」

今回ループケアするのもハバロフスクで買ってきたかわいらしい柄の生地。この生地はアルバムに変わる。

「15年ほど前にハバロフスクの手芸屋さんで購入しました。手芸屋といっても看板もないようなお店で、とにかく1件ずつ扉を開けてみて、そこでたまたま布が売ってたっていう感じ。この生地は主にインテリア用だと思います。ハバロフスクの方のご自宅にも招かれて行ったりしたことがあるんですけど、一般的なご家庭で、欧米と同じシャープな顔立ちで大人っぽいのに、インテリアはこういう布を使ってるギャップがかわいいかった。花柄だらけの家で、着てる物は結構セクシーで。私にとっては新鮮だったんですが、当時で既にこの布はおばあちゃんが使うような生地でした。」

初めてのハバロフスクから5年ほど続けて渡航し、毎回5日から1週間程度滞在した。その5年の間にも確実に街は変化してきた。町一番のホテルでさえハローも通じず、都会らしさのない閉鎖的な街が徐々にお鮨屋さんができてたり、デパートができたりしていった。日本人も増え、ショーウインドーもしっかり商品が飾られるようになっていき、当初おもしろかったハバロフスクではなくなったと感じた岡田さんは、さらに10時間ほど北に行った街などで買い付けをするようになった。

買い付け旅行にしばらく行けていない今、その街もまた開発の渦中にいるかもしれない。岡田さんが買い付けに行っている間、お店を見てくれていたスタッフの中には「bois2」での経験をもとに自分でお店を始めた人もいる。

「ずっとお店にお客さんとして来てくれていた子が、そのまま働いてくれたことが多いですね。Ronronner(http://ronronner.net/)の川本さんは、高校生の時から来てくれていて、アルバイトから社員になって働いてくれました。入った時から独立心がすごくあったので、ここで勉強してお店を開きますって話してくれた夢をずっと持ち続けて、ちゃんと機関からお金を借りる算段もして、計画書とかも一生懸命書いて本気で頑張っています。」

独立した子が、素敵なお店を始めていることは、岡田さんにとってもやってきたことが間違いじゃなかったという気持ちがするのではないだろうか。広島の雑貨屋さんの歴史とともに歩んできたこの20年はどう感じているのか。

「今の時代だったら、私は雑貨屋をやってなかったかもしれません。始めた時の飢餓感がないかも。今なら、あのお店が大好きだしこのお店もいいみたいなファン側でいれたかもしれない。でも、やっぱり好きなお店がなかったら、自分がやったけど。」

やっぱり自分でやるみたいだ。子どもも徐々に手を離れ、買い付けの旅再開も見えてきた。子連れでも行ってみたいと言っていたその旅でまた新しい写真もたくさん撮るだろう。きっと楽しいアルバムができあがる。




--岡田志保さんのアルバムが完成しました

岡田志保さんのロシアで見つけたファブリックをループケアし、アルバムに仕立て直しました。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

PROFILE

PROFILE

岡田志保

雑貨店オーナー

1975年生まれ。
美術大学を卒業後WEBデザインの仕事に就く。
しかし、自分の欲しいと思う雑貨へのこだわりから自身で雑貨店を開店。
雑貨店の経営と主婦業と子育てをこなしつつも新しい展開も模索中である。

聞き手: 山口博之

写真: 山田泰一

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